日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

天地人 第8回「謙信の遺言」

謹慎は解けたものの、未だいいとこ無しの兼続ですが、何故か謙信に高く買われていました。せめて何かひとつでも活躍をでっち上げておくべきだったと思うのですが・・・いくら主人公補正を効かせても、これじゃ違和感が拭えませんよ。
そしてこのまま御館の乱突入の模様。いいのか?これで!

七尾城攻略

冒頭ナレーションで瞬殺( ̄□ ̄;)!!
天正五年(1577)閏7月から、前年に続いて2度目の攻城戦に挑み、最後は遊佐続光の内応によって、9月15日にようやく七尾城を攻略しました。義将謙信を謳う『天地人』にとって、この経緯は不都合で、触れたくなかったということでしょうね。

手取川の戦い

上杉謙信が織田勢を撃破したとして著名な合戦です。しかし知名度とは裏腹に、その存在が疑われてもいます。なぜなら、この合戦を記した史料が『歴代古案』収録の上杉謙信書状のひとつのみだからです。ひとつだけでも充分とみる向きもありましょうが、織田勢と上杉勢との大軍同士の合戦があったなら、もう少し史料が残ってしかるべきでしょうし、不自然な感じは否めない。もちろん、今後新たな史料が発見される可能性もありますが。
また、現状唯一の史料である上杉謙信書状は所謂「大本営発表」ですから戦果が誇張されているとみるのが自然でしょう。それから『信長公記』には合戦の記述はないものの、織田勢は加賀南部の御幸塚・大聖寺に拠点を確保してから引き揚げたとあり、合戦があったとしてもそれほどダメージはなかったものと思われます。

功名が辻 第18回「秀吉謀反」 - 日本史日誌

功名が辻』のときの記事を引用(^^;
ちなみに手取川の戦いについて記されている上杉謙信書状ですが、9月19日付なのに9月26日のことまで書かれているのだとか。写し間違いの可能性もありますけど・・・匂いますな(笑)


まあ、偽作ではないにしても、「千人を討ち取り、残りは川に追い込み、洪水で人馬は残らず押し流された」という戦果は誇大でしょうね。それだけの戦果があれば、名の知れた武将のひとりやふたりが戦死していてもおかしくありませんが、そのような人物は見当たりませんし。
また、謙信が追撃しなかった(できなかった)のも戦果がそれほどでなかったことを示していると考えられます。謙信は義将(というかプッツン武将w)だから、などと言われますが、それは誇大戦果を鵜呑みにしているからであり、謙信が据え膳を逃した事例を示さなければ説得力はありません。結局、柴田勝家らの主力は無事退去しており、追撃戦ならともかく、拠点で迎え撃たれるとリスクが大きいですから、それを避けたと考えるべきでしょう。それに越中能登の領国化はまだ不完全で、加賀も一向一揆が味方しているとはいえ、上杉にとっては馴染みのない土地です。そんな簡単に信長に決戦を挑める状況ではなかったのです。