日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

天地人 第3回「殿の初恋」

「信玄死んだみたいだから京都目指そうぜ!」って、兼続クンの頭は大丈夫ですか?(^◇^;)
越中の平定も思うように進んでいないのに飛躍しすぎにもほどってものが。実力行使がダメでも、謙信二度の上洛と同じく交渉で他領を通過させてもらうという手もありますが、そんな手間暇かけるより、「信濃攻め取ろうぜ!」という方がよっぽど現実味があるかと。
うーん、結局どういう意図のあるシーンだったのか理解しかねます。まあでも、昨年のような主人公の言う無茶がまかり通る事態は避けられたということで、その点は評価できるでしょう。

高坂弾正春日虎綱)の動向

信玄の西上作戦に同道していたのかな?
越後への抑えとして海津城に留まっていた、と考えるのが自然なところですが。


【追記】やはり推測通りだったようです。

で、高坂弾正川中島をうろついていたから信玄が死んだという兼続の推測ですが、弾正は信玄の上洛に同行しておらず、海津城で上杉家の動きを警戒する役目を果たしていました。つまり、いて当然のところにいただけの話。信玄が死んだという推測の根拠にはならんでしょう。

『天地人』第3回 | 豊泉堂雑記

兼続は川中島で武田の軍勢を見た際に「何故武田の軍勢が川中島にいるのか、本来なら都を目指し三河あたりにいるべきなのに」といぶかり、「信玄腹心の高坂(正確には香坂)昌信(春日虎綱)が川中島にいるのはおかしい。信玄は死んだのではないか」と謙信に推論を述べていましたが、結果としては正解でも高坂うんぬんは無茶な理論です。なぜなら高坂は対上杉の先鋒として海津城を守る立場であり、信玄の西上にはハナから参加していないのですから。あるとすれば、信玄の西上の隙を狙って北信濃を窺うかもしれない上杉氏に備えて、示威的行動として川中島あたりを軍事的に散歩した、というところでしょうか。

【天地人】 第三回「殿の初恋」: 橋場の日次記(ひなみき)

謙信越中戦線

謙信は前年の元亀三年(1572)8月より越中に出陣し、そのまま年を越して、4月になってようやく帰国。越中では武田氏の支援を受けた有力国人の椎名氏、そして武田氏と結んだ一向一揆勢が上杉氏に対抗していました。お陰で謙信越中に釘付けで、8月には越中への再出陣となります。
ちなみにこの元亀四年・天正元年(1573)の4月から8月という期間には、信玄の死去に始まり、足利義昭の挙兵と敗北と追放、朝倉氏・浅井氏滅亡、と歴史上の大きな出来事が立て続けに起きています。

上杉景虎登場

ご存じのように後北条氏から養子に迎えられた彼ですが、越相同盟は二年前に破綻。実家と養家は再び敵対関係に入ってしまいましたが、実家へは戻らず、そのまま上杉家の一員として暮らしていました。
ドラマでは、まだ景勝妹とは結婚していないようですが、実家へ戻らなかった(戻されなかった)のは、既に結婚していたためではなかろうか。彼の嫡子道満丸は御館の乱で殺害されたとき9歳(数え年)といい、元亀二年(1571)生まれとなる。越相同盟破綻の年で、婚姻は当然それ以前となるでしょう。


【追記】こちらも推測通り。

でも、史実では2人はとっくに婚姻しているのではないかと思います。
三郎が越相同盟の証として、春日山に来たのは元亀元年(1570)4月です。
同月25日、謙信は景勝の妹を娶らせ、自分の旧名景虎を与えています。彼女は景勝の1歳下の妹です。
2人の婚姻については、北条氏康書状(元亀元年5月12日付)に次のように書かれています。
「去る廿五、息三郎御城中に於いて御祝儀を遂げらるるの由、誠にもって千秋万歳の至り」
先月(4月)25日に祝言をあげたと氏康が書いています。氏康の没年は翌元亀2年ですから、2人の婚姻がそれ以前なのは間違いありません。ドラマはそれから3年後ですから、とっくに2人は結ばれているわけですね。

膏肓記 まだ顕景では

直江兼続の母の出自

信濃の豪族、泉重蔵の娘という説が有力のようですが、ドラマでは直江景綱の妹という説を採っています。
兼続は後に直江景綱の娘・お船と結婚し、直江氏の名跡を継承するわけで、直江氏の血縁者という説は魅力的にも映りますが、お船の前夫で婿養子として迎えられた直江信綱は血縁関係のない総社長尾氏出身であり、それを考えると直江景綱の妹説の蓋然性は低いと言わざるをえません。