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日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

斎藤義龍の一色改姓について/木下聡/戦国史研究(54号)

論文

斎藤義龍が一色苗字を名乗ったというのは軍記類か何かの与太話かと思っていたのですが、そうではないようです。
それで一色苗字を称した理由について考察しているのですが、いまひとつ腑に落ちません。土岐氏の後継者であることアピールするためという説を否定している点、これは大いに納得。「それなら土岐氏を名乗ればいいじゃん!」てことですものね。
なんですけれども、それに替わる主張として、

家格・官途では一色氏が土岐氏よりも上位にあった。このことから、義龍は土岐氏の後継者よりも、土岐氏を超える存在であることを示すために、一色氏に改姓したとみるべきだろう。

というのですが、じゃあ家格が上なら他氏でも良かったの?という疑問が浮かびますし、結局のところ何故に一色氏を選んだの?という根幹の疑問は解決されていません。
確か、母の実家が一色氏という俗説があったと思いますが、それが事実であればこの件は理解できます。しかし、縁のない一色氏を名乗ったというのでれば、あまりに唐突で理解しがく、解明が待たれるところです。


それと一色氏の方が格上という点についても少々。
家格はどちらも相伴衆で、その中で一色氏が第二位、土岐氏は大内氏と並んでドベ。官途は、ともに左京大夫で、一色氏は修理大夫となることも。ということで、確かに一色氏の方が上っちゃ上なのですけど、これで「土岐氏を超える存在」をアピールできるほどの差があるんでしょうか? そのくらいは誤差の範囲内で、同格としか感じられないのですが、当時の認識がどうなのか気になります。


話変わって、その他に興味深い点を2つ。まずは名乗り・呼称の変遷。

「斎藤新九郎利尚」
    ↓
「斎藤新九郎范可」
    ↓
「斎藤新九郎高政」
    ↓
「斎藤治部大輔(高政ヵ)」
    ↓
「一色左京大夫義龍」

って、あれ?「斎藤義龍」は?(^^;
どうやら治部大輔任官の前後あたりが「斎藤義龍」と見られるようですが、どうして抜けているのかは謎。また、長くても弘治二年(1556)から永禄四年(1561)の間、5年ほどということで、何にせよ意外なことでした。
それから、一色氏を名乗ったのは、永禄四年(1561)の左京大夫任官のときと推測しており、そうなるとこの年のうちに亡くなっているので、「一色義龍」であった時期は非常に短いことになります。これまた驚き。


また、義龍が一色氏に改めたのと同時に、重臣を一色氏家臣の苗字に改めさせていたというのも興味深い。

安東日向守守就  → 伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元  → 氏家常陸介直元
竹越新介尚光   → 成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就 → 延永備中守弘就

何故か氏家(ト全)だけ定着している。謎だ。