読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

浅井氏三代/宮島敬一/人物叢書

書籍

浅井氏三代 (人物叢書)

浅井氏三代 (人物叢書)

北近江の戦国大名浅井氏。亮政・久政・長政の三代、その勃興から滅亡までの足跡を辿ります。浅井氏をテーマとした書籍は専門書・一般書ともに少ないようなので、それだけに貴重。また、人物評伝とは些か趣が異なる内容でしたが、随所に興味深い指摘があって興味深い一冊です。

「あざい」ではなく「あさい」

はしがきにていきなり先制パンチ!o(^_-)○☆
歴史マニアの間では「あさい」ではなく「あざい」と読むのが半ば常識と化していますから、旧来の読みがやっぱり正しいという主張はセンセーショナルですらあります。
さてその根拠ですが、ひとつは平安時代成立の『和名類聚抄』に「あさい」と訓じてあること。そして近世に流布した『節用集』(易林本)では「あざい」とあるが、これより古い『節用集』(黒本本)には記載がないことから、近世になって濁ったようだ、としています。
もう一押し欲しいところですけど、「あざい」説の根拠は現在の東浅井郡西浅井町などが「あざい」と訓じることに拠るようで、それが近世より遡れるのかどうか分かりませんから、現状では「あさい」説の方が有力と言っていいのではないでしょうか。
また本書には「アサイ」と記された史料が紹介されていました。

去る暁、細川被官人江州に合力、諸勢出陣と云々、中書*1被官アサイ城、この間、六角少弼これを攻める
『二水記』大永五年八月二九日条

江州アサイは朝倉太郎左衛門*2手えアツカって、これを取る
『寺院雑要抄』大永五年九月四日条


『二水記』の方は国立公文書館内閣文庫蔵の写真版が掲載されていて、「アサイ」とあるのが確認できます。

浅井氏の出自は不明

鎌倉時代に浅井氏が存在していたらしいですが、その後は音信不通なので没落したんじゃあないかとのこと。結局、浅井亮政の実父直胤以前は遡ることは出来ません。
しかし、このように突然変異的な登場をするということは、三条公綱落胤*3のような貴種流離譚も案外真実味を含んでいるのかもしれません。

浅井氏の権力構造

京極氏の権威を克服しきれず、国衆とも一揆的な関係のままであったらしい。
長政の代になってもそれは変わらなかったようで、信長が諸大名に上洛を呼びかけたときも京極氏の下、近江国衆のひとりに位置づけられています*4
結局のところ、守護権力を克服できず、戦国大名として強固な支配を確立できなかったということで、私などはマイナス面にしか眼が行かないのですが、家臣団である国衆との一揆的関係(同士的・共和的構造)が浅井氏の軍事力の強さの要因だった、という積極的な評価が興味深い視点でした。

浅井長政お市の方の婚姻時期

功名が辻』放送時に関心を持ったテーマです*5。まあその後、長らく放置していたわけですが・・・(^^;
本書では現在有力とされている永禄十一年説を否定しています。この件については後日別稿を立ててまとめようと思います。

足利義昭上洛行動への従軍

これまた『功名が辻』放送時より気になっていたテーマです*6。長政の影があまりに薄いので上洛戦に従っていたのか疑問に思っておりましたが、どうやら『言継卿記』に記述があるようで、ちゃんと従軍していた模様です。
さてこの件については判明したのですが、元亀元年の諸大名上洛に長政が実際に従っていたのかどうかは分からずじまいですし、意外と不明なことが多いです。これについて本書では興味深い視点を示しています。

ところで、信長の基本的史料である『信長公記』には不思議と長政との関係記事がない。お市との婚姻、また両者の出会い、殊に永禄一一年から行動を共にした時期の記載がなく、その一方で元亀元年の姉川合戦から以降は多い。元亀元年以前の長政に関わる記事がないのは作為的とも言える。


もしそうだとすると、織田浅井の蜜月期について触れるのを憚る必要があったということだろうか。一体誰のために?何のために? 興味は尽きませんが手がかりも思い浮かばないのが何とももどかしいところです。

*1:京極高清

*2:朝倉教景(宗滴)

*3:この説自体は一次史料によって否定されています。

*4:『二条宴乗記』「信長上洛付書立・同触状」。このとき朝倉義景が上洛に応じず、信長が越前に出陣し、長政が信長から離反することとなりました。

*5:功名が辻 第8回「命懸けの功名」その2 - 日本史日誌

*6:功名が辻 第7回「妻の覚悟」 - 日本史日誌