日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

関ヶ原合戦と大坂の陣/笠谷和比古/吉川弘文館

関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)

関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)

「戦争の日本史」シリーズの第17巻。
関ケ原合戦と近世の国制*1など、これまでの著作とかぶる部分も多いですが、新知見もありましたのでそれらを書き留めておきます。

徳川秀忠部隊の遅参要因

笠谷氏は以前、家康出陣を報じる使者が川留めにより遅れたことを遅参要因とする説について、秀忠遅参の責任を回避するため徳川史書(『朝野旧聞褒藁』)が捏造したものであろう*2、との見解を示していましたが今回はそれを訂正返上。
ところで俗説では、予定になかった上田城攻撃を行ったために時間を無駄にして関ヶ原に間に合わなかった、というような解釈がなされますが、これはそもそも根本的な誤り。秀忠部隊の主要任務が信濃平定、つまり真田昌幸上田城制圧にあったことは笠谷氏も以前より主張されており、問題の焦点となるのは家康からの使者が到着したとされる9月9日前後の秀忠部隊の動きです。
以前の見解では翌10日に小諸を発して西上するものの、その動きが緩慢であることから、使者到着による影響がみられないとしていていましたが、本書では9月7日付の井伊直政本多忠勝宛秀忠書状と9月11日付の里見義康宛秀忠書状を紹介。それによれば、9月7日の時点では東軍が美濃赤坂に進出したことを認識しながら依然として真田攻略に重点を置いているのに対し、9月11日にはそれが一転して、家康の命令により上洛を急いでいる旨が述べられている。
すなわちこの間に家康の命令によって作戦行動に大きな変化がもたらされたことは確実で、緩慢とされる秀忠部隊の行動も、狭隘な中山道での行軍の困難さと、真田氏への備えといった従来から指摘されていた要因に加え、根本的な作戦変更による混迷・真田攻略失敗による心理的要素などで整合性はとれるとしています。

方広寺鐘銘事件

「国家安康」「君臣豊楽」の語句に対して徳川方が難癖をこじつけたとする有名な事件ですが、その事件認識はそもそも誤りで、撰文者である文英清韓が意図的に織り込んだものであるという!
そのことは清韓自身が弁明書で証言している(『摂戦実録』)ので、疑いようのないところ。
もちろん、清韓は祝意から出たものと弁明しているのですが、他人の諱を使用するのはタブーであるにも関わらず事前の許可も取らずにこのようなことをすれば呪詛調伏を疑われても仕方のないところ。「徳川方の言いがかり」というのは当てはまらなくなります。
ただし、これを奇貨として大坂の役へと持ち込んだのは徳川方の謀略になるわけですが。

*1:これを先に読んでおいた方が良かったかも。そろそろちゃんと読まなくっちゃ(^^;;;

*2:歴史読本6月号 書き換えられた戦国時代の謎/新人物往来社 - 日本史日誌