日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

戦国大名武田氏の一門と領域支配/丸島和洋/戦国史研究(53号)

本稿では武田家「御一門衆」と領域支配の関係について検討を行った。戦国大名においては、一門が領域支配を委ねられるという印象があり、武田氏における一門像・領域支配論もそうしたイメージのもとで展開される傾向にあった。しかしながら、武田家「御一門衆」の中核である信繁−信豊や信廉には「支城主」となった徴証は見出せない。彼らは基本的に甲府にあって、大名の分身としての軍勢統率と、外交を担当する存在であった。

確かに「御一門衆」には、領域支配を担当した者も少なくない。しかし本稿で検討した諏訪勝頼は、あくまで高遠諏訪家当主の立場で高遠領支配に臨んでいた。穴山武田氏にせよ、仁科盛信にせよ、国衆家の当主であり、支配の対象も国衆領を基本としている。つまり武田氏の分国支配において展開した「支城領」は、いずれも国衆領を組み込んで成立したものであり、その移行は国衆家そのものの相続という形で行われたということができよう。そもそも「支城領」と呼べるような一円的な領域は、既存の国衆領を引き継がなければ、確保することが困難なのである。

一般的な戦国大名一門衆のイメージは、実際とは異なるものであることを教えてくれる。この論文では武田氏のみを検討対象としていますが、他家もまた同様で、普遍化できる理論ではないでしょうか。
まあ分かりやすく言えば、養子政策のことですし。思いつくだけでも、後北条氏しかり織田氏しかり毛利氏しかり。三好氏もそうですね。


そしてこの論文で個人的に最も興味を惹いたのは、武田勝頼の高遠諏訪家継承に関する件について。
武田勝頼のすべて』以来注目の話題*1ですが、こちらに詳しい記述があります。
まずその史料根拠として、武田家歴代の供養を行ってきた高野山成慶院の供養帳を挙げている。それには勝頼とその縁者*2が歴代とは別の折本にまとめられていて、そこには彼らに加えて高遠頼継が記載されており、しかも先頭に来ていることから、勝頼が高遠頼継供養の担い手であり、すなわち高遠諏訪家を継承したもの、と結論づけている。
また、勝頼家臣団には、諏訪本宗家の家臣が確認されず、家老保科氏や付家臣の小原下総守・継忠兄弟など高遠諏訪家の家臣団によって構成されていたとみられる点もそれを補強している。


ただ、諏訪氏惣領も勝頼が獲得した可能性が高いとしているが、これについてはどうなんでしょうか。つまり本宗家と惣領職が分離したという考え方で、確かにそれには成る程と思うのですが、ただその根拠が今ひとつ弱いような?

  • 勝頼が高遠諏訪氏の通字「継」ではなく、本宗家の通字「頼」を用いていること
  • 武田氏において国衆の惣領職が安堵・改替の対象となっている事例が複数見出せること
  • 勝頼が諏訪本宗家を継いだという考えは、惣領職の継承に起因するのではないか


これらが根拠として挙げられているのですが、通字については先代も「頼継」と「頼」を用いているわけで、根拠たり得るのか疑問が残りました。


戦国史研究 第53号

戦国史研究 第53号

*1:武田勝頼のすべて/柴辻俊六・平山優 編/新人物往来社 - 日本史日誌

*2:祖母、母・諏訪御料人、前妻・遠山氏、曾祖父