日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

武田勝頼のすべて/柴辻俊六・平山優 編/新人物往来社

武田勝頼のすべて

武田勝頼のすべて

いくつか興味を惹く記述がありましたので、書き留めておきます。

勝頼が継承したのは諏訪惣領家ではなく高遠諏訪家か

彼が領有したのは、諏訪領ではなく高遠領であることを考えれば、それが自然なことかもしれない。
詳しくは丸島和洋高野山成慶院『甲斐国供養帳』−『過去帳甲州月牌帳)』」(『武田氏研究』34号)を読めとのこと。チェックしなくっちゃ。

御館の乱における動向と意図

同盟国後北条氏より上杉景虎支援の要請を受けながら、上杉景勝と和睦をし、それがために甲相同盟は破綻し、やがて武田家滅亡に至ったことはよく知られておりますが、なぜ勝頼がそのような外交方針を採ったのかについての論考が興味深い。
まず和睦は、景勝支援のためではなく中立及び景勝・景虎間の調停が目的であったことを指摘。そしてそれは織田・徳川に背後を突かれることを恐れて早期決着を図ったためであろう、と推測している。合理的な論理で非常に納得。
ちなみにこれも丸島和洋氏の論考。新進気鋭の研究者さんのようですね。今後注目していきたい。

織田氏との和睦を模索

天正七年末から翌年にかけて、佐竹義重の仲介で和与交渉が行われたそうな。全く知りませんでした。岩村城攻防戦以来、織田・武田家は常に敵対して没交渉とばかり思いこんでいたものですから・・・(^^;
突っ走った挙げ句に家を滅ぼしたとして低い評価をされがちな勝頼ですが、武田家存続に向けて柔軟な姿勢を見せていたことを考えれば、もう少し評価してあげたいところです。