日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

風林火山 第2回「さらば故郷」

今回は勘助が故郷を離れ、甲斐へ向かうまでの経緯のお話。ほぼ大河オリジナルの創作ストーリーだと思われます。

山本勘助の出自

正直なところ、面倒であまり首を突っ込みたくないところなのですが、今回はほとんどがこれに関するお話でしたので、軽くまとめておくことにします(^^;
駿河富士郡の山本貞幸を実父とし、三河牛窪(牛久保)の大林勘左衛門の養子となったとするのは『甲斐国志』に基づくもので、現在における通説だそうです。また『甲陽軍鑑』には「このものハ三河うしくぼ侍」「山本勘助道道鬼斎ハ、本国三河牛窪の者也。」とあり、また『高白斎記』にも「三州牛窪ノ浪人山本勘介」とあり、三河出身者と認識されていたようです。
とはいえこれらは確実な根拠たり得えないのですが、かといって全く根拠がないとも言い切れぬようで、まあこんなところだろう、と言ったところでしょうか。
ただそれにしたところで、大林家に養子入りした経緯や、廻国武者修行へ出た理由などはよく分かっていないとのことですから、今回のストーリーはほとんど創作で埋めていかないといけなかったわけですが、なかなかコンパクトにまとまったのではないでしょうか。勘助の隻眼を生まれつきのものとしたところがポイントかな。隻眼ゆえに出家させられるところを大林家の養子に拾われ*1、そして隻眼ゆえに仕官が叶わないので、修行に出ることに話も繋がります。そして帰ってくると養家に実子が誕生していて居場所がない。前回獲った手柄首を横取りされるお話は蛇足のような気もしますが、実の父母が亡くなり、実兄に刺客として襲撃されるというお話とコンボで、もはや頼るべき場所を失った勘助の境遇を表現しているのでありましょう。

福島越前守

今川氏輝死後に起こった花倉の乱で玄広恵探を擁立し、今川義元に抵抗した人物。この時点で武田氏に通じているとか、万沢口の戦いで武田勢を本陣に引き入れたとか、これらは創作だろう。ただ、こういった描き方をするということは、氏輝の死に関与させる気ではなかろうか。話としては面白くなりそうだ。
それにしても、サングラスのないテリー伊藤って怖い・・・。

武田信虎は信玄を疎んじていたのか?

元服前の信玄が、父信虎所有の名馬鬼鹿毛を所望し、信虎の怒りを買ったという出来事は『甲陽軍鑑』にのみ見えるエピソードです。一度断られたのに信玄が理屈をこねて再度申し入れたので信虎がブチ切れたという。
このエピソードや初陣の話など、『甲陽軍鑑』では脳味噌筋肉の信虎と理屈っぽい信玄という対立構図が窺えます。そして信虎は可愛げのない信玄を疎んじ、次男信繁を鍾愛。信玄廃嫡の動きさえあったというのですが、これらはあくまで信玄マンセーの『甲陽軍鑑』に拠るもの。実際にどの程度の父子相剋があったのか、それはハッキリしません。父追放という結果から逆算による推測ともとれますし、父追放という汚点を緩和させるために、虐げられたエピソードを創出したとも考えられる。もちろん全て創作ではなくとも、実際にあった個々の出来事を誇張したり歪めるだけで充分に意図した方向に持っていけます。
また、信虎は信玄の元服にあたって将軍より偏諱を頂いたり、信玄の正室を公家より迎えたり、信玄を嫡子として最大限に待遇しています。追放時に今川家へ向かったのも信玄を信頼していたがゆえでしょう。疎んじていたという形跡は見られません。信虎信玄の父子には骨肉の争いがあったと、半ば常識と化していますが、疑ってかかるべきではないでしょうか。
それから、信玄と信繁の剣術試合ですが、これは勘助兄弟の殺陣と合わせて演出するために創作されたお話だと思われます。

信玄元服

天文五年(1536)正月、従五位下大膳大夫に叙任し、将軍足利義晴の一字拝領により武田晴信と名乗ります。


この件については、桐野作人氏が非常に分かりやすくまとめておられます。

膏肓記 武田晴信の偏諱・叙爵・官途
膏肓記 武田勝頼の官途


どうも元服時の官途名は大膳大夫ではなく、左京大夫の可能性が高そうですね。ドラマで大膳大夫が採用されたのは、時代考証担当の柴辻俊六氏がそちらの説を採っている(『武田信玄合戦録 (角川選書)』)影響によるものでしょうか。

*1:ただ、出家に当たって大林勘左衛門が迎えに来ていた理由が分からず、違和感がありましたけど。