日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第49回「永遠の夫婦」

皆様お疲れさまでしたー。今年も無事最後まで見届けることができました。
最終回は、回想シーンがふんだんに使われていて、いかにも最終回といった趣でした。そういえば今年は回想シーンが割合少なめだったような気がしますがどうでしょう。昨年が多すぎたから、そうみえるだけかもしれないけど(^^;

山内一豊の病

倒れた一豊ですが、やはり時期は河中山城(高知城)入城直後の慶長八年(1603)8月に設定されておりました。
先週*1も述べたように、慶長十年(1605)の死は突然のことで、それまで大病を患ったという記録は無いようです。

2年連続出演

昨年は今井兼平役を務めた古本新乃輔が、最後にきて登場。野口真緒ちゃん(大姫→茶々)、徳井優(堀親家→田中孫作)と連続出場が3人*2も居るなんて、珍しいんじゃないでしょうか。
祖父江徳心斎、ってもちろん架空の人物でしょうが、モデルになった人物はいるんでしょうかねぇ。と、それはさておき、先週の湘南和尚もそうだったように、こちらもまた思い出したかのような唐突な再登場。おまいら音信不通にも程があるだろう(苦笑) まあ、死んだっきり最後まで思い出してもらえなかった与禰姫よりはマシですけど。与禰姫カワイソス(´;ω;`)ブワッ
それにしても唐突さというのは『功名が辻』の特徴のひとつ、というかその最たるものと言っていいでしょうね。人物の登場のさせ方、ストーリーの展開、一年を通して唐突さが目立ちました。「話を遡れば…」なんていうのも結局はこの唐突さを緩和させるためのものでしょうし*3

中気

中風のこと。脳卒中のことを指しているようですね。それで半身不随と。

千姫輿入れ

慶長八年(1603)7月、豊臣秀頼のもとに徳川秀忠の長女千姫が入輿。秀吉の遺命に基づく婚姻でした。
一豊は伏見城から大坂城へ入る千姫の道中を警備しています。で、それはいいのですが、ドラマでも慶長八年(1603)7月のこととしており、つまりドラマの流れとしては一豊が倒れる前月としているにも関わらず、何故か一豊は病を押しての参加となっているのです*4


って、これはセリフのミスっていうレベルじゃねーぞ


こういう場合はたいてい、千姫輿入れの時期をドラマに合わせて捏造したり、あるいはぼやかしたりするもんですが、そうするわけでもないということは、これも明らかに制作側の単純ミスなんでしょうね。前回のミスに気付いた後、最終回のチェックは行わなかったのでしょうか? 気付いたけど編集が間に合わなかったのかなぁ・・・いや、これは簡単に編集できるものでもないか(^^;

茂助がやって来た

堀尾吉晴が土佐に来訪。言うまでも無く創作ですが、最終回ですから懐かしい顔に合って思い出話にしんみり、という展開も悪くない・・・そう思って見ていたら、千代がヒステリーを起こして茂助がアワアワ、という全てが台無しの展開に。なぜ?!
まあ、伯耆米子中村家の御家騒動に対して、隣国でもなく、縁戚関係にもない山内家に介入を依頼する堀尾吉晴がそもそも頓珍漢なわけでありますが。
それにしてもどうしてこんな意味不明な話を挟み込んだのですかねぇ。こんな頓珍漢なこと言ってるから堀尾家は改易されたのだ、とでも言いたいのでしょうか(んなアホな)。

改易された中村家・堀尾家

両家の改易はともに無嗣断絶によるもの。つまり当主が継嗣を決めぬまま死去してしまい、後継者不在として整理されてしまったということ。別に御家騒動が関係しているわけではありません。江戸時代初期は末期養子が認められていなかったために、仮に近親者がいたとしても後の祭りだったのです*5
じゃあ早くから養子を迎えればいいだろ、と言いたいところですが、そう単純にはいきません。やっぱり若い頃は実子誕生の可能性がありますから。で、そうこうしている内に若死にしてしまって、というのが中村家・堀尾家のパターン。何も両家に限った話ではなく、山内家にもその可能性はあったわけで。なにしろ一豊が甥の忠義を養嗣子としたのは晩年のこと*6。もしその前に亡くなっていたら大名としての山内家は一代限りとなった可能性は高い。また2代目の山内忠義にしても、もし襲封後まもなくに早世なんていうことになったらやはり改易となったでしょう。幸い山内忠義は長生きし、襲封の4年後には嫡子をあげるなど子宝にも恵まれたため、そのようなことにならなかったわけですね。

山内忠義の婚約

徳川秀忠への将軍宣下の儀式から1ヶ月後の慶長十年(1605)5月13日に婚約成立。お相手は徳川家康の異父弟・松平定勝*7の娘・阿姫(くまひめ)。格を上げるため伯父家康の養女とされました。ちなみに松平定勝は、一豊の後の掛川城主です。
そして翌年4月17日、既に一豊はこの世にありませんが、伏見の山内家屋敷にて婚儀が執り行われました。
婚儀が慶長十年(1605)4月17日に執り行われたとする説もあるそうですが、徳川秀忠への将軍宣下の儀式の翌日であることから常識的にみてこの日であったとは考えにくく、誤って1年前倒しに記してしまったものと思われます。

一豊死去

起きたら冷たくなっていた・・・まさかこんなお別れになろうとは( ̄□ ̄;)
畳の上で亡くなる場合、皆に看取られて、少なくとも千代には看取られて逝くようにするでしょ、常識的に考えて。
あと、最期のキスシーンが無駄にエロい(笑)。そういえば、今までキスシーンってありましたっけ? まさか最初で最後ってわけではないでしょうけど、全然印象に残ってませんわ。


さて、一豊の死は慶長十年(1605)9月20日、或いは翌9月21日のこと。土佐に帰国してまもなく突然のことで、遺言なども伝わっていないようです。

その後の見性院

一豊の死を受けて落髪し、以後「見性院」の法号を称します。そして翌年には土佐を去り、京都に戻るのですが、康豊たちの慰留を振り切っての上洛なんですよね。政治的な目的もあったかもしれませんが*8、そのようなことよりも、馴染み深い京都で静かに夫の菩提を弔いたい、という想いが強かったのではないでしょうか。
そして一豊の死から12年後、大坂の陣の2年後の元和三年(1617)12月4日に死去しています。京都では目立った活動は伝わっていません。大坂城に赴いて淀殿に秀頼上洛を説得するのは、もちろんお約束の蛇足。世の中の移り変わりを客観的に見ていくだけで充分に最終回らしくなったと思います。まあ、最後まで『功名が辻』らしくあったということでしょうか。

*1:功名が辻 第48回「功名の果て」 - 日本史日誌

*2:まだ他にもいるかも。

*3:あんまり効果的とは思えませんでしたけど。

*4:左手も不自由そうでしたから、病後という演出で間違いないでしょう。

*5:たいていは数千石程度の旗本として名跡継承が許されますけど。

*6:養子としては湘南もいますが、後継者として認められた嗣子ではありません。

*7:家康の母・於大の方松平広忠との離別後、久松俊勝に再嫁して儲けた子。

*8:といっても、それも主に高台院との交流など限られたものでしょう。