日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第34回「聚楽第行幸」

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先週の視聴率ですが、持ち直すどころか18%台へとさらに低下。ここまで健闘を見せてきたものの、いよいよ息切れか。今後も苦戦必至でしょう。何か見どころがあるといいんですけどね。

聚楽第


聚楽第遺構の伝承をもつ西本願寺飛雲閣がドーン!と。ちなみに西本願寺飛雲閣聚楽第遺構説は否定論が強いようですが、詳しい内容を知りませんので深入りは避けておきます。
で、その背後に聳える白亜の大天守ですが、これは姫路城大天守だと思われます。破風の構成などは姫路城大天守そのもの。


備前丸より姫路城天守と西小天守


それから聚楽第遠景ですが、これはまさに姫路城。小天守群を抱える連立式天守に、小高い丘の上に城を構えた姿は、姫山に築かれた姫路城で間違いないでしょう。両CGは姫路城をベースに作られたものと思われます。
ちなみに姫路城大天守は五重櫓ですが遠景CGの大天守は四重櫓のようです。これは『聚楽第図屏風』(三井文庫蔵)に描かれた天守が四重櫓のため、それに合わせて縮小したものと考えられます。しかしどうせなら屏風絵を基に作ってくれればいいのに、と思うのですけれど。第一、姫路城はいわゆる平山城であって、洛中の平野部に築かれた聚楽第のモデルとしては不適格。こんなにこんもりしていては違和感ありあり。モデルにするなら二条城の方がベターでしょう。
ところで、遠景の左端に五重塔が移っていますが、あれは一体どこでしょう? 洛中の五重塔といってすぐ思い浮かぶのは東寺ですが、いくらなんでも離れ過ぎていますし。

対馬守殿

任官エピソードは出てこず、初登場の小西行長に「対馬守殿」と呼びかけられたのが初出。ナレーションくらい入ってもよさそうなものですが・・・。
一豊の対馬守任官ですが、『一豊公紀』所収「御代々記」によれば天正十五年(1587)とされるのですが、旭姫の輿入れに際して人夫の徴発を命じた秀吉朱印状の宛先には「山内対馬守とのへ」とあり、この書状の日付の天正十四年(1586)4月14日以前には任官していたものと思われます。前々回*1あたりが想定されるわけです。

大仏殿の建立

堀尾吉晴が建立したという大仏殿。東大寺大仏殿の再建は江戸時代ですし、となると方広寺大仏殿か。
しかし造営は天正十四年(1586)に開始されたようですが、完成は文禄四年(1595)になったそうですし話が合わない。そもそも堀尾は方広寺大仏殿建立に関わっていたのだろうか。方広寺大仏殿建立が誰によって進められたのかを知らないので、そのあたりから調べてみる必要がありそう。
それから、奉行の小早川様とは小早川隆景でしょうか。気になります。

一豊と聚楽第行幸

天正十六年(1588)4月14日から5日間に渡って行われた一大イベント。
ドラマでは天皇をもてなす準備をする世話役の任を仰せつかっておりました。ドラマゆえのお決まりの創作とも思われますが、『検証・山内一豊伝説 「内助の功」と「大出世」の虚実 (講談社現代新書)』には出典不明ながら、奏者役を命じられていた一豊が仮病を使って数日間サボっていたという話を載せています。おそらく山内家史料に拠ると思われますが。今回のドラマはこの話を取り入れたものか。ちなみに奏者役は儀式において謁見者の紹介や、献上物の披露などを行うお役目。
しかしあれほどの盛儀ですから、山内家史料だけでは信憑性には欠けるのは否めません。一豊がそのような立場にあったのかどうかという観点からも疑問符が付きますし。『聚楽第行幸記』などの史料ではどうなっているのかが気になります。
一方、同じく山内家史料である『一豊公紀』所収「御家中名誉」には、諸大名の供奉の列に加わったとあるようです。こちらは至極妥当ではないでしょうか。


ところで、後陽成天皇役の柄本時生柄本明の二男だとか。親子共演ですね。言われてみると、あのもっさり感がどことなく似ているような。

パッチワークを天皇に献上。

以前に紹介したように*2、いちおー元ネタのあるお話。聚楽第行幸とのブッキングは脚色されておりますが。
つか、これまでのパッチワーク関連ネタは全てこれのための前振りだったわけですが、それにしては意外にあっさりした印象を受けました。後陽成天皇から千代に直接お声がかかる、くらいの展開がありそうなもんですけど。いや、無いなら無いで喜ばしいことなのですが・・・なんか複雑な心境(^^;

佐々成政と肥後

天正十五年(1587)6月、九州平定後の国分けで佐々成政肥後国が宛行われてからの経緯をザッとまとめてみる。ちなみに肥後一国といっても、秀吉の直轄領である蔵入地に相良氏の人吉領は除かれています。


聚楽第行幸とほぼ同時期に佐々成政は蟄居せしめられ、さらに翌々月に切腹を命じられております。なかなか上手いタイミングで肥後問題を取り上げたんですね。やるじゃん。
しかし相変わらずの謀略史観。わざわざ助命した男に大役を任す理由が、彼を滅ぼすための謀略だ、などというのはあんまりではないでしょうか。ただ厄介なことに謀略史観は市民権を得ているんですよね。似たような話として徳川家康の関東転封があります。
謀略史観が浸透しているのは、感情論で片づけられるからだと思われます。つまり、「秀吉と成政は犬猿の仲だった」という話を前提に「だから秀吉は成政を滅ぼしたかった」となるわけです。
しかし犬猿の仲という話自体がそもそも信憑性のあるものではありません。また、佐々成政が一度は秀吉に叛旗を翻したことを持って、両者の個人的関係を云々するのも妥当なものとは言えないでしょう。そして何より成政は秀吉の軍門に降り、その命運は秀吉が掌中にしていたわけで、滅ぼしたいと思うのであれば、わざわざ手の込んだことをする必要もありません。わざわざチャンスを与える必要もありません。そして唐入りを既に念頭に置いていた秀吉は九州を前線基地と捉え、肥後の重要性も認識していました。実際、先鋒を務めたのは後に肥後を領した加藤清正小西行長だったことからもそれが窺えます。
というわけで、秀吉が佐々成政に肥後を与えたのは謀略などではなく、彼の手腕を買っての起用だったと考えられます。
このあたりの経緯や史料についての参考として『史伝 佐々成政 (学研M文庫)』を挙げておきます。

唐入り計画

朝鮮侵攻はまだまだ先のことですが、ようやくそれに向けての話を織り込んでまいりました。秀吉が唐入りについて喧伝し出したのは、天正十四年(1586)といいますから九州征伐の前年というかなり早い段階になります。
ちなみに、秀吉の当初の狙いが朝鮮ではなく明(中国)であったのは、「唐入り」という言葉が表しています。また「仮道入明」といって、朝鮮については眼中になく、あくまで大陸征服のために道を借りるという方針でしたが、朝鮮側がそのようなことを受け入れられよう筈もなく・・・。

淀殿懐妊、鶴松誕生

天正十七年(1589)5月27日、淀城にて鶴松誕生。
浮かれた秀吉が「小田原を落とした後は天下の総仕上げ。その後は軍略に優れた者は要らぬ。一途に鶴松に仕えるものこそ大事!」などと言っておりましたが、唐入りはすっかり思考の外ですか(^^;
うーん、唐入りの話を持ち出した後にこの台詞を持ってくるのはあまり上手くありませんね。それくらいはしゃいでいたという演出だったのだ、と好意的に解釈してみようか。


それから、鶴松誕生で豊臣秀次の立場が急に不安定なものとなったかのように描かれておりました。しかし時代考証小和田哲男氏の著書『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)』によれば、まだ秀吉の養子ではなかったと見られ、あくまで有力な一門大名であったということです。ただこの時点で他に有力な後継者候補もなかったようなので、期待くらいはあったかもしれません。

黒田官兵衛の隠居

秀吉が「わしの死後天下を取るのは誰か」と尋ねた後、秀吉が官兵衛の名を挙げ、それを聞いた官兵衛は秀吉の猜忌を避けるべく引退を申し出た、というこの話は有名なエピソード。
『名臣言行録』『常山紀談』『古郷物語』といったところが伝えている話だそうですが、信憑性については疑問符も。
それはともかく、秀吉死後の天下について語るのは座興の場での話であって、まるで尋問するようなあの演出では、秀吉のいやらしさを強調するだけです。もしかするとそれが狙いなのかもしれませんけど。それと尋問相手を秀次としたのは彼の運命を暗示させるためなんでしょうけど、あの場面で鶴松の話から黒田官兵衛の話へと持ってくるのは正直強引すぎると思います(-"-;)