日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第33回「母の遺言」

母上逝く。
ところで先週の放送ですが、ここのところ守り続けてきた視聴率20%を遂に割りました(関東地区)。ついでに調べてみたところ、20%を割ったのは第12回(3月26日)、第18回(5月7日)の2回のみの模様。今度も一時的な現象で終わるか、或いはこのままズルズルとになるか、今回が分かれ道となりそう。


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九州征伐

天正十五年(1587)3月1日、秀吉は大坂城を発って、島津氏を討つべく九州へ向かいました。
豊臣秀次大坂城での留守居を務め、秀次宿老である一豊も大坂城下に詰めていたことでしょう。ドラマでも始めはそうなっておりましたが、近江八幡、そして長浜へ。近江八幡には一豊だけでなく豊臣秀次中村一氏堀尾吉晴まで来ておりましたが、留守居の務めは大丈夫なのだろうか?(笑) 近江八幡の開発は田中吉政に任せておけよ、と思うものの、田中吉政は出てませんし、ここいらで出ないということは今後登場する可能性も限りなく低いでしょう。

法秀院逝去

天正十四年(1586)7月17日、一豊の母・法秀院が死去。法号は法秀院殿縁月妙因。
そうです。ドラマでは1年遅れになったわけです。前年は先週放送分に該当するわけですが、旭姫と家康の一件で忙しかったですものね。でも捏造はちょっと。
ちなみに天正十八年(1590)7月説もあるようなのですが、詳しい事実関係までは掴めず。

伴天連追放令

天正十五年(1587)6月、島津氏を降した秀吉が凱旋の途上に立ち寄った博多で発令。ドラマでは大坂に帰還後の8月にされておりました。
文字通り伴天連(宣教師)の国外退去を命じたもので、キリシタンに棄教を迫る禁教令ではないので注意。棄教を迫られたのは、それを拒んで改易されたという高山右近くらいでしょうか。そもそも伴天連追放自体が有耶無耶になってしまい、実効性の薄いものだったようです。

山内康豊結婚

水野氏女と結婚。ということで、相手は山内忠義生母の妙玖院で間違いなさそうです。登場するかどうか危ぶんでおりました*1がこれで一安心。
クレジットで該当しそうな人物は「於美」かな。さすがに名前を「千代」には出来ないわな(笑)。それと、妾であったという妙玖院ですが、ドラマではどうやら正式な妻として迎えいれた様子。日陰の存在ならともかく、これなら今後もしばしば登場するということでしょうか。
ちなみに、婚礼の席に同席していた熟年夫妻は妙玖院の父母役でしょうか? クレジットには該当しそうな人物は見当たりませんけど。
妙玖院の父とされる水野某ですがこの人物はよく分からない。伊勢国白子の住人なんだそうですけど・・・うーん。

聚楽第

前年2月より着工していた聚楽第が完成し、天正十五年(1587)9月13日に秀吉が移徙。一豊も普請に従事していたようです。

淀城

天正十七年(1589)、懐妊した淀殿のために建てたという城。2年早いか。

捨て子を拾う

天正十五年(1587)に長浜城下で見性院が捨て子を拾って養育したという子供。家臣の子供とも一豊の落胤とも言われますが、確たることは分からない。
ドラマでは「数奇な運命を辿る」らしいですが、出家して湘南和尚になるだけじゃないの?

豊臣賜姓

天正十四年(1586)12月。ドラマではスルーされましたが、クレジットでは今回から「羽柴秀吉」→「豊臣秀吉」、「羽柴秀次」→「豊臣秀次」へと変化していました。
まあ、「豊臣」は姓で、「羽柴」は名字ということで、異なるものですから、本来このような変化はせず、氏姓と名字が一緒くたになった近世以降に生み出された便宜的なものに過ぎません。