日本史日誌

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真説・智謀の一族 真田三代/三池純正/洋泉社新書y

真説・智謀の一族 真田三代 (新書y)

真説・智謀の一族 真田三代 (新書y)

  • 第1部、真田家の三つの謎―本拠地・金箔瓦・出自
  • 第2部、真田幸隆―一族の没落を救った「智将」の生涯
  • 第3部、真田昌幸―信玄に育てられ、上杉、徳川、北条氏と渡り合った豪将
  • 第4部、真田信之・幸村―「陰の功労者」信之と「叛骨精神」のシンボル幸村


「真田三代」とあることからも分かるように、悲しいかな真田信綱に関する言及はほとんど無し。
本書に限ったことではないですが、真田信綱は歴とした真田家当主であったにも関わらず、その存在は軽視されがち。勿論、長篠の戦いでの戦死によって当主としての活動期間が短かったこと、家督が子孫ではなく三弟の昌幸の系統に渡ったことなど、そうなる理由も分からなくはないのですが、もう少し何とかならないものか。ややもすると昌幸が簒奪したかのような印象すら受けるのですが。


話が逸れましたが、本書で注目したのは以下の3点。真田幸隆の出自、豊臣期の上田城、そして関ヶ原の際の上田城攻防戦の意図。


まず真田幸隆の出自ですが、系図系譜等では古代より続く東信濃の名族・滋野姓海野氏の嫡流ということになっています。幸隆は真田の地を与えられて真田氏を名乗り、海野本家が村上氏の攻撃を受けて滅亡したため、海野氏嫡流の地位を受け継いだ、というのが真田氏の公式見解のようです。
それに対して、中世の文献に真田氏が既に見えることや、中世遺跡にもその痕跡が残っていることから、真田氏は幸隆以前より存在しており、その一方で系図系譜等に幸隆以前の存在が見えないことは真田氏が実の先祖を抹消して海野氏嫡流を詐称したためではないか。とするのが従来の解釈のようです。
本書では両者の折衷案的な仮説を提示。中世真田氏が何らかの事情で断絶となり、そこに海野本家から庶子の幸隆が入って名跡継承したのではないか、と。確かにこれなら色々と辻褄があうし、興味深い見解です。問題はいかに立証するか、でしょう。
それから海野氏嫡流を称しながら結局「海野」名字を名乗ることがなかったことをどのように考えるべきか、という問題も残っている。これについて私の考えるところを述べれば、武田氏被官時代は武田信玄二男の龍宝が海野氏の名跡を継いでおり、それゆえに憚ったものと思われます。そして武田氏滅亡後ですが、既に「真田」名字にネームバリューやブランドといったものが付随するようになっていて、それゆえことさら「海野」名字を名乗る必要性が無かったのではないか。と、このように推測しますがどんなもんでしょう。


次に豊臣期の上田城についてですが、上田城からも金箔瓦が出土していたんですね。ビックリ。知りませんでした。真田氏のもうひとつの城である沼田城からも金箔瓦は出土しているわけで、上田城から出ても不思議ではないか。
そして鯱瓦も出土しているのだそうで、天守が建っていた可能性もある模様。
現在の上田城は質素な印象を受けますが、それは江戸時代に仙石氏によって築かれた城。関ヶ原の戦い後に徹底的に破却されたという真田昌幸上田城は、仙石氏のものとは及びもつかない立派な城だった可能性が高いということで、なんだか凄いワクワクするような夢の膨らむ話だ。


最後に関ヶ原の際の上田城攻防戦について。開戦の発端は刈田狼藉を行った徳川勢を真田勢が追い払おうとしたことですが、これは真田昌幸の仕掛けた作戦ではなく偶発的なものではないか、と仮説を述べられています。
基本的に上田城攻防戦については徳川方の立場から、遅延問題も絡めて考察されることが多く、真田氏がどのような状況認識からどのような見通しを立てていたのか、などについてはあまり考えられてきていなかったような気がします。
「知将」「策士」といった昌幸のイメージ像が大きすぎて、それによる推測に基づいて真田氏の動向が語られてはいないだろうか。
そんな現状に一石を投じる仮説です。いろいろ考えてみる必要がありそう。援軍が望めない孤立した状況で大軍を相手としている、という点で似た状況の京極高次の大津城籠城や細川幽斎の田辺城籠城などと比較検討してみるのも良いかもしれない。