功名が辻 第30回「一城の主」
「話は遡るが…」って便利ネー。
長浜城主となるのが少し早い
先週も述べたように、山内一豊が長浜城と2万石の知行を拝領したのは天正十三年(1585)閏8月のこと。知行宛行状は閏8月21日付になっています。
しかしドラマでは7月になっていて、何故か2ヶ月も早まっています。わざわざ時期を早めなければならない理由があるとも思えないのですが。謎です。
長浜城天守
天守の映像ですが、望楼型の二重櫓ですね。現在の復興天守の映像かな?とも思ったのですが、多聞櫓が連結しているところなど、似ているところもあるものの、現在は三重五層ですからちょっと違うようです。CGでしょうか?
ところで一豊が入城した当時、長浜城に天守はあったのでしょうか?
天正十三年(1585)年1月、つまり一豊の長浜拝領の8ヶ月前、秀吉が長浜町人に天守破却への協力を命じており、秀吉城主時代に建てられた天守は破却された可能性があります。
彦根城天秤櫓
続いて出てきた門の映像。これはすぐにピンと来ました。長浜城から移築されたという彦根城天秤櫓です。実際には天秤櫓の向こうに彦根城天守は見えないので、天守の部分のみ合成されたものだと分かります。
髭の一豊様
城主になって髭が付きました。当時は髭が身分とどのような関係にあったのだろう。気になるものの風俗はサッパリ。
そういえば大名となってそう日にちが経っているはずはないので付け髭なのでしょう。当時も付け髭があったとか聞いたような・・・(うろ覚え)。
一豊と髭ですが、晩年の姿を描いた肖像画*1を見ると、髭は生やしているものの、それほど濃くもなく、立派というわけでもなく。
五藤吉蔵はやっぱり召し出された
五藤吉兵衛死後、唐突に出てきた弟が、人手不足の山内家臣団に加えられました。埋め合わせ要員以外の何者でもないですね。
彼については以前に述べたとおりです*2。しかしドラマでは、どうして尾張黒田にいたのか、兄と行動を共にしなかったのか、などの説明はなし。ま、いずれにせよ取って付けた感は否めませんけど。
行方不明の山内康豊
視聴者的にも行方不明でしたが、ドラマ上でも行方不明とは(笑)。いままで気に掛けている風でもなかった母上がようやく話してくれました(苦笑)。しかも千代はそれを全く知らなかった、と(苦笑)。
羽柴秀次が近江八幡城主となる
『武家事紀』所収の知行宛行状は閏8月22日付。一豊の知行宛行状の翌日です。ドラマ上ではどう見ても翌日のわけがなく、こちらの日にちは史実に合わせてありそう。
ところで、近江八幡城が既に存在しておりましたが、近江八幡城は秀次が築いた城ですから、いささか勇み足では。
山内康豊あらわる
浮浪者の身なりで捕まり、千代のもとに引っ立てられ、「康豊殿!」と千代がビックリ、周囲もビックリ、というベタな方法で再登場。
その後、彼の口からこれまでの経緯が語られる。織田信忠に仕え、本能寺の変に遭遇し、脱出して溝口秀勝のもとに赴いたという。ここまでは家譜に基づいているようです。溝口秀勝は丹羽長秀に仕えており、康豊とは相婿の間柄だったとか。
放浪部分は創作ですが、逃げ出したからといって仕官が出来ないというわけでもないでしょう。主君と生死を共にしなければならないのはごく一握り。実際、織田信忠の籠もった二条御所からは織田有楽斎や前田玄以なども逃げ出しているわけですし。
それから兄一豊とも再会。一豊は「そなたのことを考えぬ日は1日たりとて無かったぞ」なんて言っていましたけど、これまでそんな素振りチラともなく・・・白々しく聞こえてしまうのは私だけでしょうか。
*1:大通院蔵や土佐山内家宝物資料館蔵など。