日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第29回「家康恐るべし」

これでようやく追いつきます。それにしても今回は展開が目まぐるしい。

大坂城築城

天正十一年(1583)に着工し、本丸が出来上がるのは翌々年ですから、「いつ新しい御殿にお入りに?」なんて気が早いです(^^;
それと茶々殿のため、ってそれは淀城でしょう。

羽柴秀次登場

千代と感動(?)の再会。
秀吉の跡取り候補とされていましたが、信長の四男で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝(於次丸)はまだ存命(天正十三年(1585)没)であり、端役とはいえドラマに登場させたのであるから、もう少し配慮が欲しいところ。また、於次秀勝の死後は、秀次の弟である小吉秀勝が秀吉の養子になっており、秀次が跡取り候補となるのは意外にももっと後のこと。

池田恒興森長可登場

池田勝入斎(恒興)に森武蔵守(長可)が登場。森長可は言わずと知れた森蘭丸の次兄。
それにしましても、池田恒興山崎の戦い清洲会議などこれまで重要な場面でスルーされてきたことは遺憾に思います。
今回の両者のように一回こっきりの捨て駒的な登場のさせ方が『功名が辻』には多いように感じられてなりません。前回の杉原家次などはまさに何のために登場させたのか分からない一例。今後出番があるとも思えませんし。
もちろん役の重要度によって仕方ないこともありますが、もう少し適材適所というか登場人物の使い方を何とかして欲しいという不満が残ります。
ちなみに池田・森らと同じく部隊を率いて長久手へ出陣し、引き揚げに成功した堀秀政は登場せず。

小牧・長久手の戦い

天正十二年(1584)3月に始まる羽柴勢と織田・徳川勢の激突。
前哨戦として、犬山から羽黒に進出した森長可が3月17日に酒井忠次の攻撃を受けて敗退した羽黒の戦いがあるものの、それ以外に目立った合戦はなく、陣地戦へと移行。
4月5日に秀吉が前線の楽田城に移ると戦局が動き出し、4月7日夜半に別働隊が三河を目指して出陣。しかし4月9日、家康の急襲を受けて別働隊は壊滅。以後は両軍の睨み合いが続きました。
羽柴勢の敗因は、敵地にも関わらず行軍がのんびりとしていたこと、各部隊の連携が取れていないこと、そして何より家康の動きに対する警戒を怠っていたこと。経験の浅い秀次にこれらの責任を負わせるのは酷に思われます。
また中入りという作戦は、あくまで主力軍が敵軍を抑え込んでいて初めて効果を発揮するものです。このときの家康は戦闘正面の小牧山城を抜け出しているわけで、これに関しては秀吉のミスでしょう。ただ、それ自体はそれほど大きな問題ではなく、敵主力が抜け出たということは、それだけ敵陣地が手薄ということであり、攻勢をかけるチャンスなわけです。中入りの狙いのひとつでもあります。しかしここで秀吉は小牧山城で成果をあげることが出来ませんでした。それもまた秀吉の責任であります。もちろん別働隊があっさり壊滅せずに数日なりとも支えていれば事態も変わった可能性はあります。
賤ヶ岳の戦いでの柴田勢が、そして小牧・長久手の戦いに置ける羽柴勢がそれぞれ失敗したことで、中入りは愚策というイメージが定着してしまった感がありますが、中入りというのは古来よりの常套手段である挟み撃ちの一類型であり、それ自体が無謀な作戦というわけではありません。むしろ小牧・長久手の戦いでは羽柴勢がチャンスを悉く潰したといえるでしょう。
それと何より、敵別働隊を速やか撃破し、味方陣地が支えているうちに帰還する、という難しいミッションを見事やり遂げた徳川家康の手際を賞賛するべきなんでしょうね。家康嫌いな私としては不本意ではありますが(笑)。

一豊と小牧・長久手の戦い

相変わらず山内家史料*1に拠るしかないようですが、4月8日付で柏井(春日井市)の森川屋敷要害の守備を命じられており、それに従事したものと思われます。時期及び場所からして、ドラマのとおり別働隊の後方支援に当たったのでしょう。また、その後は陣城の普請・補修に当たっています。

織田信雄の単独講和

天正十二年(1584)11月11日、秀吉と織田信雄が講和。尾張戦線は膠着状態にあったものの、伊勢戦線では羽柴秀長・秀勝・蒲生氏郷らが攻め込み、ほとんどを制圧していました。伊勢戦線はあまり陽が当たりませんが、信雄の領国は崩壊しかかっていたわけで、もちろん家康にも伊勢にまで援軍を送る余裕もなく、信雄としては致し方のない選択でしょう。

秀吉関白就任

天正十三年(1585)7月11日、秀吉は関白に任官。

一豊、長浜城主となる

天正十三年(1585)閏8月21日、一豊は長浜城と2万石の知行を与えられました。このとき羽柴秀次近江八幡城に知行20万石および宿老分23万石を拝領しており、秀吉から付けられた宿老のひとりが一豊。他に中村一氏が水口城6万石、堀尾吉晴佐和山城4万石、一柳直末が大垣城2万5千石、そして近江八幡城で政務を執る田中吉政が3万石。一柳直末と田中吉政の出番はあるのか?!
さて、一豊が大名になったのは、城持ちになったのはこのときが初めてなのだろうか? 山内家史料の『一豊公紀』によれば、前年の天正十二年(1584)に長浜城5千石を与えられたと*2。さらに天正十三年(1585)6月2日には若狭高浜城を与えられたという。ただし、どちらも信憑性に欠けるので、ドラマで取り上げなかったのは嬉しい誤算というか何というか。まあ、初長浜の方は、清洲会議後の長浜城をめぐるドタバタコントに含まれている、と言えなくもないような。


山内一豊のすべて/小和田哲男 編/新人物往来社 - 日本史日誌
山内一豊学習帳 天正十二年(1184)に長浜城主就任の真偽

*1:『一豊公紀』所収「御武功記」及び「御手許文書」に拠る。

*2:これを山内家では「初長浜」と呼ぶのだそうな。