日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第23回「本能寺」

ぶわっはっはは!!!(≧▽≦)
いやー、オモロイ本能寺の変でしたね。あの大袈裟な演出はフジテレビ『大奥』シリーズに通じるものがありました。

演説をぶつ明智光秀

本能寺襲撃前に兵等に向かって大義を説き、そしてお馴染みの「敵は本能寺にあり!」と定番コース。水戸黄門の印籠と同じで外すことの出来ないお約束場面なのでしょう。ドラマチックですしね。
ただ理屈からいえば、数百人程度ならばともかく明智勢は1万余もの軍勢であり、それらに向かっての演説など考えがたい。それから、演説は別としても「信長を討つ」ということを軍勢に告げていたかどうか、という問題がありますが、雑兵にまで告げるとなるとことがことだけに動揺する可能性が高く、かつ信長のもとへと知らせに走る者が出ないとも限らない。
また史料においても、雑兵のひとりとして本能寺へ討ち入った者の体験談である『本城惣右衛門覚書』には、何処で誰を討つのか全く知らされておらず、彼は家康を討つのであろうと思いこんでいたというのである。変から60年後に記されたものではありますが、「家康を討つ」ものと勘違いしていたなどということは、江戸時代においては憚られそうなことですから、真実味があります。

濃姫の最期に弁慶を見た

鉄砲の連射を浴びながらなかなか倒れなかったところが、弁慶の仁王立ちを彷彿とさせて・・・流石に倒れましたけど、あのまま倒れなかったらどうしようかと思いました(笑)。

長浜城退去

秀吉の一族・妻女らは城外に逃れたようですが、具体的なことはよく分からず。
長浜城を占拠したのは、旧近江守護家の京極高次に、浅井氏旧臣の阿閉貞征・貞大父子。このようなときは現状に不満を持つ旧勢力がチャンスとばかりに立ち上がるものなのでしょう。ちなみに阿閉父子は秀吉に従っていましたが、所領問題に不満があったとか。
また、『多聞院日記』によれば光秀の重臣斎藤利三長浜城に入城したということです。

本能寺の変山崎の戦い

主な出来事を時系列でまとめてみました。

  • 6月2日、本能寺の変二条御所織田信忠自害、光秀坂本城*1
  • 6月3日、信長の妻女安土城退去
  • 6月4日、清水宗治自害、羽柴毛利講和成立
  • 6月5日、光秀安土城に入城*2
  • 6月6日、秀吉備中高松出立
  • 6月7日、秀吉姫路城に帰城
  • 6月8日、光秀坂本城に帰城
  • 6月9日、光秀上洛、秀吉姫路城出立
  • 6月10日、光秀洞ヶ峠へ
  • 6月11日、光秀下鳥羽着陣、秀吉尼崎進出
  • 6月12日、秀吉摂津富田進出
  • 6月13日、山崎の戦い

今回の一豊夫妻

本能寺の変に関するエピソードがありませんので、毎度のことながら何とかして主人公を話に絡めようと苦労の跡が伺えます。
ただ、もうちょっと当たり障りのないやり方はないものか。千代が長浜退去を采配したり、一豊が毛利へ変事を知らせる使者を見つけたり、ちょっと影響が大きすぎる。まあ、それくらいでもしないとただでさえ霞みがちな存在がますます、ってことなんでしょうけど。

現在の本能寺跡地

今回の「功名が辻紀行」は本能寺。本能寺跡の映像も出てきました。そういえば3年前に訪れたときは老人ホームの建設中でしたが、当然のことながらもう出来上がっているんですね。ぐぐってみたところサイトも発見。


http://kyoto-fukushi.org/place/hon.html


ちなみに石碑の周辺も随分きれいに整備されていましたが、3年前の或る日はこんな感じでございました。


本能寺跡

*1:瀬田城の山岡兄弟が唐橋を落としたため瀬田川を渡河できず、その修築を待つための帰城。

*2:6月4日説もアリ。『フロイス日本史』『多聞院日記』。6月5日説は『兼見卿記』『蓮成院記録』。