日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第22回「光秀転落」

前回は名馬伝説に話を合わせるため、唐突に安土で屋敷を与えられ、一豊夫妻はそこで過ごしていましたが、そんなことは無かったかのように千代は長浜に戻ってきておりました。とりあえず天正十年(1582)4月よりスタート。

書状を送りまくる一豊の妻

関ヶ原の折の、というか小山評定の前に一豊に送ったという「笠の緒の密書」のエピソードへ繋ようという目論見でもあるんでしょう。数少ないネタは膨らませていかないといけませんしね。
ところで、毎日書いているとのことでしたが、当時の通信事情を考慮すれば、まとめて送ったということになるんでしょう。そして当時既に存在した飛脚か、あるいは所用などでその地へ赴く人物に託した、とするのが妥当なところか。黒田官兵衛や五藤吉兵衛が手にしていた文はそれほど長くありませんでしたが、一豊には毎日書きためた文がいっぺんにどっさり送られてきて辟易していたのでは、とドラマの裏設定を妄想。

備中高松城攻め

天正十年(1582)4月から6月にかけての戦い。水攻めでお馴染み。
足守川を堰き止め、石井山麓の蛙ヶ鼻までの3kmにも及ぶ堤を築いたと従来は言われておりますが、築堤されたとされる地域は微高地になっているため、実際には僅かな距離の築堤で済んだのではないか、とも言われております。
それにしても備中高松城のCGですが、総石垣に白漆喰の土塀そして立ち並ぶ櫓群と、まさに近世城郭そのものでしたが、もちろん虚構に過ぎません。

鎗を分捕る一豊

この頃の話として、『一豊公紀』引用の「御武功記」に記されているもので、それによれば場所は備中高松城から東に数十km離れた備前国野間(赤磐市野間)という。合戦に至る経緯は分かりませんが、一豊はこの戦いで敵の鎗を素手で掴んでそのまま捻り取り、相手を討ち取ったという。その鎗は「来源国俊」という業物で、こののち山内家の行列の先頭にこの鎗を押し立てるようになったのだそうです。
それにしても、一豊とすれば数少ない合戦での見せ場となるエピソードなのですが・・・肝心の合戦シーンはなく、秀吉たちが本陣から見守りながら一喜一憂するのみ。こんな扱いならいっそ無かった方が良かったかも。

武田家滅亡

前回スルーされましたが、お馴染みの「話は遡るが」で説明入りました。

恵林寺焼き討ち

命じたのは信長ではなく織田信忠ではありますが。

怨恨説と信長非道阻止説を混合

本能寺の変の要因として最も著名なのは怨恨説ですが、その要素は俗書によって広められたもので、いずれも根拠のある話ではありません。
今回は、明智光秀の母が見殺しにされたという話*1は採用されませんでしたが、甲州征伐後の折檻、家康饗応役罷免、坂本・丹波召し上げ、と三連発には目も当てられず。幾らなんでも今さらこのようなワンパターンはちょっと・・・と言いたくもなります。しかも、信長の異常性と光秀の常識人ぶりを際だたせて両者の違いを明確する手法は、本能寺の変が理解しやすくなるため非常に危険。それは、根拠のない話にも関わらず人々を安易に納得する方向へ誘ってしまうからで、実際あのような両者の姿を見て成る程と思ってしまう方も多いことでしょう。本能寺の変は謎の多い事件であり、このような出来過ぎたストーリーは分かりにくいが故に生み出されたものと考えられます。
それからこれまでどおり信長非道阻止説に則った展開も見せています。こちらは以前も述べたとおり時代考証小和田哲男氏の説。しかしこれとて根拠のある話ではありません。「教養人・常識人」といった光秀に対するイメージから導き出されたとしか思われませんが、そもそもこのイメージはそれほど根拠のあるものではなく、確かに連歌や茶の湯を行っていたことは見えますが、それは光秀だけのことではありませんし、「教養人・常識人」とするには些か誇大でありましょう。そして信長が朝廷を滅ぼそうとしていた、というのも根拠のない推測。信長には朝廷をどうこうしようというような行動はさしあたって見られません。

三職推任

天正十年(1582)5月4日、勅使の上臈局、大御乳人に武家伝奏勧修寺晴豊が付き添い、安土に到着。信長に対して関白・太政大臣征夷大将軍の何れかへの推任を示しました。このとき信長が認めたという返書の内容は明らかではありませんが、その後の朝廷に任官準備を進める動きがないことから、断ったものとみられています。
これをもって朝廷を滅ぼす目論見があった、と捉えるのは飛躍しすぎでしょう。

徳川家康穴山梅雪を饗応

徳川家康穴山梅雪を伴って安土に参上し、天正十年(1582)5月15日から20日まで、信長の饗応を受けています。
「信長は領地を与えない替わりに」というナレーションがありましたが、家康には駿河国が与えられています。まあ、これは家康が切り取ったものではあるので、与えたのではなく安堵した、という方が適当でしょうか。所領安堵されたとなると、徳川家の独自性はひとつ失われたこととなり、信長への従属度が高まったといえましょう。
また、武田一族の降将穴山梅雪は甲斐の本領を安堵されていました。オープニングのキャストロールには名があったのですが、饗応の場面にそれらしき人物を見つけられず・・・あれ?

秀吉より急使到着と秀吉への援軍派遣

一豊が使者を務めるのは毎度毎度のお約束。なぜかそのまま饗宴の御相伴に預かっていたのはワロタ・・・いや、これもお約束ですな。
安土に到着したのは天正十年(1582)5月17日のこととされます。そして饗応の接待役であった明智光秀を切り上げさせて中国出陣を命じ、細川忠興池田恒興畿内の武将にも出陣が命じられています。
このとき信長が光秀に対して、用意した酒肴に難癖をつけて折檻したとか、領地召し上げを宣告したとかの話がありますが俗説に過ぎません。ただ『フロイス日本史』にこの頃の話として、信長と光秀が密室で会談していたが、信長が怒って光秀を足蹴にしたという話を紹介しています。密室の会談というと、茶室での政談でしょう。つまり政治向きの用件で二人が対立いたのではないか、ということになります。そして光秀が異議を申し立てることとして最も可能性が高いと考えられているのが四国政策です。光秀が取次役を務めていた長宗我部氏とは友好関係にありましたが、一転して討伐へと方針が変わり、5月7日には織田信孝に対して四国仕置の朱印状が与えられています。これは光秀が長年携わってきた四国政策から外されたことを意味し、彼にとって相当不満の残ることだったでしょう。

愛宕百韻

明智光秀は出陣を命じられた5月17日のうちに坂本城に帰還し、5月26日には丹波亀山城に入ります。そして5月27日に愛宕神社へと向かい、翌5月28日に連歌興行を催しています。
ここのシーン、もうちょい力入れてくるかと思いきや存外あっさりしたもので拍子抜け。

信長、本能寺へ

5月29日に上洛。翌6月1日には公家衆が挨拶に参じています。そしていよいよ本能寺の変へ。

*1:丹波八上城の波多野兄弟の助命を約して母を人質に差し出しが、信長は波多野兄弟を磔にしてしまったため、光秀の母も八上城で磔にされてしまったとするもの。