日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第19回「天魔信長」

千代の手紙を一豊より先に読んじゃう五藤吉兵衛とか*1、いちいち信長に対していちいち癇に障る発言をする濃姫とか*2、漠然と「寝返れ」と言うだけの無責任な六平太とか*3、今際の際に千代への愛を告白する竹中半兵衛とか、なんかもー見ていてしんどいことばかりですが、与禰(よね)役の皆川陽菜乃ちゃんのかわゆい笑顔に救われます。何と言っても子供には勝てません。

三木城攻めまでの経緯

天正六年(1578)2月に三木城の別所長治が織田方より離反。秀吉は別所方の支城を攻撃しますが、4月になると西より毛利勢が押し寄せて上月城を囲んだため、秀吉は荒木村重とともにそちらへ救援に赴いています。前回は史実の流れでいうとこの辺りまで。
で、今回のスタートは三木城攻めの模様。「播磨・三木城・秀吉陣屋」というワケの分からん字幕が出ましたが、三木城攻めのために築かれた秀吉方の陣屋ということなんでしょう。
ところで、ドラマでは完全にスルーされてしまいましたが、上月城救援から三木城攻めまでには紆余曲折ありました。救援に赴いたものの、秀吉は毛利の大軍を前に睨み合いを続けることしか出来ませんでした。そこで援軍が派遣されるのですが、織田信忠を総大将に滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝佐久間信盛に加えて織田信雄織田信包織田信孝の織田連枝衆という錚々たる顔ぶれ。さらに信長自身も播磨へ出陣すると号令を掛けていたのですが・・・援軍は別所方の支城を攻撃するのみで西播磨までは来ず、信長の出陣も結局取りやめに。そして信長は、6月16日に上京した秀吉に対して三木城攻撃を指示。見捨てられた上月城は落城。山中鹿之助は捕らえられて後に斬られます。その一方で別所氏攻撃は順調に進み、支城を軒並み落として7月には三木城攻撃に取りかかります。しかし援軍はここで引き揚げたため、羽柴勢単独では力攻めは出来ず、天正八年(1580)1月までの約1年半にわたる長期戦となりました。

細川忠興ガラシャの結婚

天正六年(1578)8月のこととされましたが、天正七年とする説もあるようで。
どうやら『細川家記』が前者を採り、『明智軍記』が天正七年(1579)2月26日とするようです。どちらが信憑性あるのだろう?

荒木村重の離反

摂津国の一職支配を任されていた荒木村重が信長に対して叛旗を翻したのは天正六年(1578)10月下旬のこと。知らせを受けた信長ですが、松永久秀のときと同様にまずは使者を派遣。存念を聞き出そうとしています。使者はドラマ同様に明智光秀、そして松永久秀のときも使者を務めた松井友閑、そして信長側近の寵童・万見仙千代の三人。村重は応じませんでしたが、11月3日に信長自らが出陣した後も説得を試みさせていますが、そのメンバーには先の明智・松井とともに秀吉の名が見えています。一豊が秀吉にくっ付いて来るのはドラマのお約束。
東播磨の別所氏を攻撃している秀吉としては、隣国の摂津が毛利方となって別所氏と結びつく事態は何としても避けたいところだったでしょう。結果として両者が目立って連携を取ることは出来ず、ともに滅亡したわけですが、羽柴勢は摂津にも駆り出されたこともあって*4、三木城攻囲の長期化に繋がったとみられます。

有岡城攻め

信仰心を利用して高山右近の高槻城を、城将のひとりであった中川清秀を内通させて茨木城を、それぞれあっけなく開城させ、天正六年(1578)12月8日には荒木村重の居城有岡城へ侵攻。
電光石火の勢いでしたが、ここからが大変。総構をもつ有岡城の前に、信長率いる織田勢の攻撃は見事に跳ね返えされ、緒戦では万見仙千代が討ち取られている。力攻めが通じぬと見てとった信長はすぐさま長期戦モードに切替。石山本願寺攻めと同じく、付城の構築を命じて諸将を在番させ、自らは引き揚げた。有岡城が落ちるのは1年後。
ちなみに今回の『功名が辻紀行』は伊丹市で、有岡城攻防戦についても語られましたが、秀吉軍が攻め立てたとするのは誤りでしょう。

荒木村次の妻

明智光秀の長女は荒木村重の嫡男村次の妻となっています。村次はこのとき尼崎城主。妻は実家に返され、のちに明智秀満の妻となっていますが、父の死後、坂本城で夫とともに自害したといいます。
ドラマでは「とも」という名で呼ばれておりました。今回は登場しませんでしたが、以前千代が幼いガラシャを明智家に送り届けたシーンに出てきていたような。

安土城天主へ移座

天正四年(1576)の築城開始時より安土山に移り住んでいた信長ですが、天正七年(1579)5月11日に正式に天主へ移座。天主は完成したばかりとみられます。また、「正式に」というからには何らかの儀式が行われたことでしょう。

明智光秀丹波平定

完成したばかりの安土城天主で信長お市兄妹が語っていましたが、もう少し先の出来事で、天正七年(1579)6月に八上城を、8月に黒井城を落として光秀は丹波一国を平定。
天正三年(1575)より丹波へ派遣されていたので、足かけ5年ということになりますが、たびたび各方面への援軍として駆り出されながらの結果なので、信長もべた褒めしています。

竹中半兵衛病死

天正七年(1579)6月13日、三木城攻囲中に陣没。
死の直前には黒田官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)を救う有名な美談がありますが、どうやら来週の放送では一豊に取って代わられてしまうようです。

*1:主従の別を弁えているキャラクターだと思っていたのだが、気が緩んでいるのか?

*2:毎度毎度勘弁して欲しい・・・というか、あんな濃姫では幾ら何でも可哀想な。

*3:千代のことを心配しているようでしたが、一豊が毛利方へ走ったらそれこそ家族の命はないでしょうに。

*4:播磨へもたびたび援軍を派遣してもらってはいますが。