日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第18回「秀吉謀反」

今週放送分です。
焼き討ちに対して異様に嫌悪感を示す一豊。越前一向一揆に対する虐殺についてナレーションでザックリとはいえ触れているわけで、それがあるにも関わらず相変わらずな態度なのは些か間が抜けているというか何というか。あるいは単に火が苦手なだけとか(んなわきゃない)。

秀吉の無断帰還

勝手に帰ってきて、信長が激怒したことは『信長公記』にも見えますが、それ以後の経過は分からず。
信長の警戒心を解くため酒宴三昧に浸って馬鹿を装った、などというのは如何にも処世術に長けた秀吉らしいエピソードですが、「如何にも−」的な感じが強すぎて、却って創作臭が鼻につく。
功名が辻』におけるこれまでの例を鑑みるに、原典は他の司馬作品ではないかと推測。あくまで推測。そうでなければ軍記類かな。

森蘭丸登場

前回もキャストに名がありましたが、特にクローズアップもされず、今回が実質初登場。前回はたぶん、軍議のシーンのみだけかと。
天正五年(1577)当時の彼は数え年で13歳。現在でいうと小学六年生です。まだちょっと出番には早いでしょうか。
信長の小姓・寵童といえば森蘭丸、っていうのが一般的なイメージだと思われますが、当時最も寵愛を受け、活躍していたのは万見仙千代。しかし彼は翌年の摂津有岡城攻めで討死しており、その跡を承けるかたちで歴史上に出てきたのが森蘭丸というわけです。

松永久秀の最期

佐久間信盛の与力として本願寺包囲網の一角を担っていた松永父子が、無断で持ち場を離れて居城の信貴山城に籠もったのは天正五年(1577)8月17日のこと。経緯は秀吉とクリソツ。違ったのは叛意の有無か。
報告を受けた信長は、取りも直さず松永の言い分を聞こうと松井友閑を派遣しています。荒木村重が叛旗を翻したときも同様で、一般的に短気と思われがちな信長ですが、結構慎重派です。秀吉に対する激怒は、それだけの信頼関係にあったことの裏返しでかもしれません。
さて、松永は説得に応ぜず、討伐軍が送られることになるのですが、その前に人質が六条河原で処刑されています。ドラマではこのあたりの順序が改変されています。処刑された二人の少年が松永久秀の息子なのかどうかはよく分からず。年齢からいくと孫が妥当かな。
織田信忠を総大将とする軍勢は9月27日に岐阜を発向。安土・瀬田・槇島を経て10月3日に信貴山へ押し寄せ、10月10日に総攻撃をかけて松永久秀を自害に追い込みました。夜戦だったようです。
10月10日は松永久秀が以前に大仏殿を焼いてしまったのと同じ日付。それゆえ当時の人々も因果応報と捉えたということですが、これって攻め手が意図的に10月10日に照準を合わせたんじゃないか、などと勘繰ってしまいます。あまりにも話が出来過ぎですよね。3日から10日までの合戦の経緯が分からないのがもどかしいところですが、首の皮一枚を残して、落城を引き延ばした、という可能性もありそうな。
ところで織田信忠に従った諸勢として佐久間・羽柴・明智の名が連なっていますが、ここまでは分かる。分からないのが丹羽が名を連ねていること。なぜなら、丹羽長秀も秀吉同様に北国へと出陣した面々の中に名を連ねているからです。ということは、丹羽も何らかの理由で戻ってきていたということですよね。もしかすると秀吉と行動を共にして無断帰還したという可能性もあるかも。

手取川の戦い

上杉謙信が織田勢を撃破したとして著名な合戦です。しかし知名度とは裏腹に、その存在が疑われてもいます。なぜなら、この合戦を記した史料が『歴代古案』収録の上杉謙信書状のひとつのみだからです。ひとつだけでも充分とみる向きもありましょうが、織田勢と上杉勢との大軍同士の合戦があったなら、もう少し史料が残ってしかるべきでしょうし、不自然な感じは否めない。もちろん、今後新たな史料が発見される可能性もありますが。
また、現状唯一の史料である上杉謙信書状は所謂「大本営発表」ですから戦果が誇張されているとみるのが自然でしょう。それから『信長公記』には合戦の記述はないものの、織田勢は加賀南部の御幸塚・大聖寺に拠点を確保してから引き揚げたとあり、合戦があったとしてもそれほどダメージはなかったものと思われます。
まあつまり、あんなに叱責される謂われなどないということで。権六カワイソス。

秀吉の播磨出陣

羽柴勢が西国へ発向したのは天正五年(1577)10月23日のこと。信貴山城を落としてから僅か10日あまりですから、慌しかったことでしょう。
しかし、赤松・小寺・別所といった播磨の有力国人衆は二年前の天正三年(1575)に上洛し、信長への謁見を果たしており、既に織田方勢力の地固めは済んでいたとみられます。ですから、それほど大掛かりな戦支度は必要なかったのかもしれません。それに秀吉の播磨派遣は以前より決まっていたことらしく、事前にある程度の準備は整っていたのでしょう。
そんなわけで、秀吉は電光石火の勢いで播磨はおろか隣国但馬まで平定。ひと月足らずのことでした。まさに順風満帆、しかしドラマではこの時期をナレーションで触れることすらありませんでしたが。そんなあっさりした平定戦ですが、備前との国境に近い上月城に攻め寄せたときには、城主の首を持参して降伏した城兵をことごとく磔にかけています。結構有名なエピソードですが、一豊くんには刺激が強すぎるのでスルーされたのカモ。
さて、翌天正六年(1578)になると状況は一変。2月に東播磨最大の有力者である別所氏が叛旗を翻し、4月には毛利勢が大軍をもって上月城を包囲。ちなみに上月城は山中鹿之介らの尼子遺臣が守っていました。秀吉は荒木村重とともに救援に赴きますが、にっちもさっちもいかず・・・。ドラマの最後の場面は、この上月城救援の際の陣中だと思われます。

有年にて七百石

天正五年(1577)の播磨出陣後、山内一豊は播磨の有年(赤穂市北部)において七百石を領した、というのは『一豊公紀』所収「御家伝并御武功記」に基づくもの。
これが転封なのか加増なのか、つまり近江唐国四百石がどうなったのか気になるところ。微妙なところではありますが、秀吉の湖北支配は継続されているし、有年は備前に近く、知行支配が貫徹できたのかどうか、特に苦難の天正六年はどうだったのか、軍役を果たすためにも安定した知行地は欠かせないだろう。そういう諸条件を考えれば加増であった可能性が高いと思われます。

黒田官兵衛登場

演じるのは斎藤洋介。なんか面白いキャラクターになりそうな予感。期待して見守りたいと思います。
ちなみに、当時は主君小寺政職より賜りし小寺名字を名乗っています。