日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第17回「新しきいのち」

先週放送分です。

天正三年から四年にかけての出来事

天正三年(1575)5月の長篠の戦い以降の出来事をナレーションで一気にやっつけ。


越前一向一揆において、比叡山焼き討ちなどとは比べ物にならぬほどの虐殺が行われたことは『信長公記』を始めとする諸史料にみえており、戦いの悲惨さを訴えるにはもってこいのエピソードかと思われますが、数カットのみという至極あっさりした扱いでした。
比叡山焼き討ちに羽柴勢が加わっていたかどうかは定かではありませんが、こちらは『信長公記』にもしっかり記されており、明智勢とともに退却する一揆勢を一網打尽にしたとか、明智勢などとともに加賀まで侵攻したともあります。しかも越前侵攻前には、信長が小谷の羽柴秀吉館を宿所にしたり、これなど千代の出番にも使えそうなエピソードでしたが、ともかくスルーでした。


そういえば、長らく出番のない山内康豊織田信忠に仕えていたといいますが、近いうちに出てくるんでしょうか? それとも兄一豊に従うまでは行方不明扱い?

与禰姫誕生

天正八年(1580)生まれとされる*1与禰姫ですが、まだ天正四年にも関わらず産まれちゃいました。
平凡な名前(?)の「よね」ですが、一豊の妹(姉とも)も「よね(米)」なんですよね。

北国より撤退せよという愚策

もっともらしく聞こえる戦略的撤退案。
しかしこれって当時の土地と人との結びつきを度外視している。小規模な戦術的撤退ならともかく、ようやく途についたばかりの越前支配を放棄しろ、などという話が仮に信長の命令であろうと北国衆に受け入れられるわけがない。路頭に迷うのは彼らなのだから。
それともうひとつ重要なことが忘れられている。戦略的撤退であろうと、外から見れば加賀はおろか越前ですら踏みとどまれなかったという結果である。つまり織田家はかなりの劣勢。そうなればこれまで織田家に付いてきた他国衆は相次いで織田家を見限る可能性が高い。現にこのとき松永久秀が叛旗を翻しているわけで。もしそうなったら決戦どころの話ではなくなるかもしれない。いつの世も大半を占める風見鶏な連中を如何に繋ぎ止めておくか、ということを忘れてはいけないでしょう。
そして何より、近江で決戦して敗れれば二度目はないということ。北陸ならば敗れても、畿内・濃尾で立て直してリベンジを図れる可能性が高い。つまり撤退案はリスクが大きすぎるのだ。
もとより秀吉がそのような策を出陣前から主張したという史料は無さそう。辛うじて『武功夜話』に松永久秀の動きを警戒して柴田勝家に退却を進言したという話が見えるくらいでしょうか。もちろん『武功夜話』にあることですから信はおけません。

*1:天正十三年(1585)に享年六歳で没したことからの逆算。