日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第8回「命懸けの功名」

前回、永禄十二年(1569)の春まで進みましたが、今回はいきなり1年飛んで元亀元年(1570)春へ。

足利義昭織田信長の対立

前回の蜜月ぶりから、いきなり対立状態のふたり。といっても、まだ水面下での戦いですが。
ことの起こりは、ドラマでは飛ばされた永禄十二年の10月。伊勢攻めの報告のために上洛した信長が突如帰国。『多聞院日記』には義昭と信長が衝突したという噂が記されており、両者の対立はこれより始まるとみられます。
次いで、年が明けたばかりの元亀元年(1570)1月23日。信長は将軍権力を制限すべく、五箇条の条書を足利義昭に突き付けて、これを承認させます。義昭にとってかなり屈辱的な事態かと思われますが、義昭もしばらくは表だった行動は起こしていない模様。信長による9月の野田・福島城攻撃には義昭自らも出陣している*1

足利義昭を負ぶったのは誰?

足利義輝暗殺に際してその弟たちも狙われ*2、義昭*3細川藤孝らの助力を得て、何とか奈良を脱出して近江そして越前へと逃れるわけです。
で、そのとき義昭を背負ったというエピソードは、明智光秀ではなく細川藤孝ではなかったか。だが、元ネタが分からないので調べきれず。

岡崎城のシーンで出てきた天守はどこのもの?


当時の岡崎城で石垣が使われたとも三重櫓があったとも思われない。
それはともかく、この天守は現在の岡崎城模擬天守とも異なるような・・・丸岡城のようにも見えるのだが確信は持てず。
うーん、このようなときにズバリ答えられないようでは自称城ヲタの名が泣く。

徳川家康」登場

なんか、「元康」と名乗りかけていましたけど、「元康」から「家康」へと改名したのは永禄六年(1563)ではないか。「松平」から「徳川」への改姓ですら永禄九年(1566)のこと。
何年も経っているのであるから馴染んでいて当然だと思うのだが、どういう意図があっての小ネタなのか?

元亀元年の諸大名上洛

足利義昭に五箇条の条書を突き付けたのと同じ1月23日付けで、信長は畿内近国の諸大名に上洛を促す書状を送っている。そして信長は2月30日に上洛。このとき信長の呼びかけに応じて上洛した諸大名として、『信長公記』に挙がっているメンバーは、飛騨の三木自綱、伊勢の北畠具教、三河徳川家康、河内の畠山高政・昭高兄弟と三好義継、丹後の一色義道、大和の松永久秀
浅井長政はどうだったのだろうか? その後の越前遠征に従軍していないことから考えると上洛していなかったことも考えられるかもしれない。或いは上洛したものの、単に遠征軍から外されただけかもしれない。そうであるならば、朝倉氏を攻撃するのであれば地勢上からいっても浅井氏が先鋒を務めてしかるべきであるにも関わらず無視されたというのは、浅井氏にとって面子を潰された事態であり、叛旗を翻した理由はそれまでの朝倉氏との関係上からの義理だけではなく、そちらの面も大きいように思われます。



今回は久々にネタが豊富なので、残りはまた後日に。

*1:このとき、石山本願寺が蜂起して信長も義昭も大ピンチに陥っている。

*2:実際に末弟の周翬は殺害されている。

*3:当時は興福寺一乗院門跡で出家の身であり、覚慶といった。