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日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

上杉景虎の政治的位置/櫻井真理子/武田氏研究(28号)

論文

2003年の論文。「はじめに」にて先行研究の紹介があります。以前より興味のあるテーマでかつ、いずれも未読なのでチェックしておこう。

上杉景虎武田信玄の養子となったという話は『関八州古戦録』の創作であるとする論考。

北条氏秀上杉景虎が全くの別人であるとする論考。


そして本論もなかなか興味深いです。


越相同盟締結により、上杉謙信への養子として一旦は国増丸*1に決まるも、その四ヶ月後に「幼少であるゆえ手放したくない」という理由で断っており、これまでそれは文面どおりに受け取られていましたが、これについて四ヶ月も経てから私情を理由に断るだろうか?と疑問を投げかけている。
確かに幼少の身で養子・人質となることは珍しいことではない*2。そうなると年齢云々というのは建て前で、根底には政治的な思惑が隠されている可能性がある。
これについては次のように推測しています。すなわち、直前に後北条氏武田信玄小田原城まで攻め込まれ、しかも出陣を要請したにも関わらず上杉謙信は動かなかったことから、上杉謙信を動かすために幼少の国増丸ではなく、越相間の取次が可能な年齢の人物、すなわち北条三郎(上杉景虎)が選ばれたのではないか、と。そして実際に上杉景虎は養子入りから同盟破綻までの1年余りの間、越相間の取次役としての役割も果たしているという。
それから養子入りとともに上杉謙信の姪と婚姻しており、その婚姻関係を結ぶためであった可能性も指摘しています。
しかし、北条三郎が北条幻庵の養子となっている時期が国増丸の養子断り後であるというのが引っ掛かるという。そもそも北条幻庵の養子となってから上杉謙信の養子となるまで四ヶ月ばかりしかないのが慌ただしすぎてアレなんですが。


あと注目すべきは、越相同盟破綻後も越後に残った上杉景虎は花押を北条氏時代のものから上杉謙信系の様式に変更。上杉家の一員として健気に振る舞う姿が想像されますね。腐女子の方には萌える状況じゃないっすか?
それから、上杉謙信の後継者は上杉景虎が有力であるとしています。「上杉家軍役帳」に上杉景虎が記載されていないのは、彼が軍役を負うべき家臣とみなされてなかった、つまり後継者として考えられていたと。一方で上杉景勝は記載されている。そして上杉景勝後継者説の有力な根拠となっている「弾正少弼*3」が謙信より景勝に譲られたとする話に疑問を投げかけている。すなわち、景勝が弾正少弼を名乗ったとする確実な史料は上杉謙信生前にはなく死後にしか見えないこと、一方で謙信が死ぬまで弾正少弼であったとみられるという。

*1:北条氏政次男。

*2:ここでは北条氏規が今川家へ人質として赴いたことが例に挙げられている。

*3:上杉謙信の官途。