山内一豊/小和田哲男/PHP新書
- 作者: 小和田哲男
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2005/10/15
- メディア: 新書
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- 第1章、山内氏のルーツと父盛豊
- 第2章、信長に仕えるまでの一豊
- 第3章、秀吉の家臣として活躍
- 第4章、秀吉に従って各地を転戦
- 第5章、近江長浜城主となる
- 第6章、掛川城主時代の一豊
- 第7章、関ヶ原の戦いにおける一豊の戦功
- 第8章、土佐一国二〇万石の大名へ
さすがに3冊目ともなると興味を惹く記述も少なく・・・。
それに本書は、旧説を基にしたような解釈が目に付くので、気持ちの盛り上がりも今ひとつ。
同時代史料に「やまうち」
淀殿侍女の大蔵卿局よりの書状の宛名が「やまうちつしま殿*1」となってるって。
こりゃ「やまうち」説に軍配か。もし用例がこれしか見付かってなければ、まだ「やまのうち」にも新史料の発見に望みを託すこともできようが。
土佐の石高
太閤検地で得られた全国の石高を書き上げた「慶長三年検地目録」(『大日本租税志』)なるものによれば土佐国の石高は9万8千2百石と。
その一方で、『一豊公紀』なる土佐藩の史料には、長宗我部氏が検地をやり直した結果として22万2千石になっていたという引用記事があるという。
なんにせよ徳川家康は土佐の石高を20万石ほどだと認識していたとのではないだろうか。そうでなければ20万石という表高が認可される可能性も低いだろう。
また、山内家の加増率が問題にされたりもしますが、プロ野球の契約更改などと同様に、元が少なければアップ率は高くなりやすい。加増高をみればそれほど山内家が飛び抜けているわけでもない。
接収に徳川家の家臣が派遣されるのは
関ヶ原の戦い直後の転封において、他にも見られる事例なのだろうか?それとも特異な事例なのだろうか? ふと気になった。