日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第48回「北の王者の死」

冒頭で早くも平泉到着、そして今回だけであっという間に2年も経過。年末進行の見本のような展開でしたねー。

平泉到着

いつ頃到着したんですかね。
とりあえず、『吾妻鏡』文治三年(1187)2月10日条には、義経が妻子を連れて奥州に赴いたとありますが、その後5月頃までは動向が掴めていなかったようなので、この2月の記事はあとで判明したことなのだろう。あるいは編纂者が適当に差し込んだか。

出家姿の藤原秀衡

あれ?なんの説明もないけど、いつのまにか頭ツルツルだわ。
調べてみると、『吾妻鏡』では文治二年(1186)4月24日条には「秀衡入道」とあり、その後も「秀衡入道」として出てくるので既に出家していたようですね。

院庁下文藤原秀衡に下す

吾妻鏡』文治三年(1187)9月4日条によれば、頼朝の訴えで奥州に下文が出されたので鎌倉からも雑色を遣わしたが、その雑色がこの日に帰着。そして「すでに用意の事有る」という意味深な報告。
この記事に基づくならば、8月あるいは7月あたりには義経が平泉にいるという確信が得られたということだろう。

貢馬・貢金の取次

意外にもこの話は義経の奥州下りの前の出来事。
吾妻鏡』文治二年(1186)4月24日条に、貢馬・貢金について鎌倉を通して朝廷に送るという頼朝の要求を藤原秀衡が了承したとあり、さらに5月10日には貢馬三疋と長持三棹が陸奥より届いたので京都に送ったとあります。土産が届いたかどうかは定かじゃありませんが。
藤原秀衡義経の庇護者として描くためには格好の逸話なので、奥州下りの後のこととして改変したのでしょうね。ただ、奥州と鎌倉の関係はそれ以前より緊張状態にあったわけで。それは治承四年(1180)の頼朝挙兵のとき以来ずっと続いていたとみられます。

藤原秀衡の死

文治三年(1187)10月29日に亡くなったと。『吾妻鏡』は同日条に見えますが、当然この日に知り得たことではないでしょう。『玉葉』では翌文治四年(1188)1月9日に当該記事が見えます。

頼朝の圧力

頼朝の要求で出された文治四年(1188)2月21日の宣旨は4月9日に鎌倉に到着して奥州に送られ、さらに10月12日に宣旨が再度出されて院庁下文も翌月に併せて出され、黙秘していた藤原泰衡はここにきて義経を捕らえると返答しています*1。というわけで、度重なるというほど宣旨が出されたわけでもないようですね。

鎌倉の奥州侵攻

よく知られるように義経死後のことですが・・・順番が逆転しとる。最後の最後までやってくれるなぁ(笑)。

*1:吾妻鏡』文治五年(1189)2月26日条。