山内一豊と妻千代101の謎/川口素生/PHP文庫
- 作者: 川口素生
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2005/10/03
- メディア: 文庫
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師走に入り、今年も残り僅か。そろそろ来年に向けて準備をしなければ!
ということで、来年の大河ドラマ『功名が辻』の予習を開始です。まずは手軽な本で肩ならしから始めよう。
本書はライトな一般向けの本なので、あまり深いところまでは言及していませんが、色々な情報を数多く盛り込んでいますので、それらの中で興味を惹かれたところを挙げていくとしましょうか。
「やまうちかつとよ」か「やまのうちかずとよ」か
一般には「やまのうちかずとよ」と読みますが、子孫の山内家では「やまうちかつとよ」と読むのだそうな。
「山内」名字については、『寛政重修諸家譜』に「やまうち」と振り仮名が付けられているという。また現在の旧藩主山内家は例外なく「やまうち」だそうな。では一体何故に「やまのうち」と読まれるようになったのかな? 遠祖山内首藤氏は「やまのうちすどう」で、名字の地・相模国山内荘は「やまのうち」なのだが、その辺が関係しているのだろうか。よく分からない。
それから「一豊」についてですが、戦国時代や江戸時代には「一」を「かつ」と読むことが少なくなかったとのこと。
ただ、同時代史料ではどうなのかな? それで確認出来れば一発なんだけど。
爺さんが丹波から尾張に出てきたらしい
『寛政重修諸家譜』に拠れば、一豊の祖父山内久豊は将軍足利義晴に従って阿波に移り、その後尾張に赴いた、と。これだけでは詳しい事情は分かりませんが、没落して丹波を追われ、尾張に辿り着いたということでしょう。
ただ、阿波に移った将軍というと足利義晴ではなく足利義稙*1と混同しているのではないだろうか。
意外に親父は出来人だった模様
これまた『寛政重修諸家譜』に拠るんだそうですが、父・山内盛豊は尾張上四郡守護代・岩倉織田家に仕えて、家老にまで抜擢されたとか。新参でありながら家老に取り立てられるなんて、並大抵の器量ではないでしょうね。
とはいえ、家老というのが一体どの程度のどのような権限を有していたのかは分からないし、なにより誇張がないとも限らない。岩倉織田家は没落しているし、それどころか大名として出世した山内一豊を頼って扶持を受けていたそうですから、誇張するのに何の差し障りも無いわけです。
兄貴がいたんだ
十郎という兄が居て、夜襲を受けた際に若くして戦死してしまった模様。夜討ちの者の正体は「清洲の織田家の者」といい、尾張下四郡守護代・清洲織田家を連想させますが、当時清洲織田家は滅亡して清洲城は織田信長の居城となっているので、織田信長が命じたものと推測されているようです。
さらに左衛門大夫某なる兄も『寛政重修諸家譜』には見えるそうですが委細不明と。
親父が死に、主家が滅んで流浪生活
父・盛豊は兄・十郎と同じときに討死したとも、のちの織田信長との戦いで討死したとも、岩倉城陥落の際に自刃したとも、諸説あるようですがともかく一豊が元服前に亡くなり、主家も滅んだため浅井新八郎や前野長康といった親類知人を頼って流浪生活を余儀なくされたとのこと。少年時代はかなり苦労してるみたいですね。
いつ頃、織田家に仕官したのだろう?
美濃牧村領主・牧村政倫のもとで元服して初陣を飾っています。その後、近江瀬田城主の山岡氏に小姓として仕えたという話もあるようなのですが、どうにも唐突な感が否めない。『山内一豊武功記』なるものに記されているそうなのですが、どういった史料なのか。
で、その後の経緯については記述なし。織田家仕官の時期や経緯については不明なのだろうか?
顔面に矢が!
越前朝倉氏が滅亡した際の追撃戦で、敵将・三段崎勘右衛門を討ち取るも、矢を顔面に浴びて鏃が突き刺さってしまったという。うひゃー。
しかもその鏃を、家臣の五藤為浄が一豊の顔を草鞋を履いたままの足で踏みつけて抜き取ったという。五藤は草鞋を脱ごうとしたそうですが、一豊がそのままやってくれと言ったそうです。
この話で連想するのは後三年の役における鎌倉権五郎景正の逸話。敵の矢に右目を射抜かれてしまい、それを見た味方の三浦為継が矢を抜くべく、やはり景正の顔を踏みつけようとするのですが、景正はそれを屈辱として拒否するという話です。一豊とは逆の話ですが、この話がなんらかしらの影響を与えている可能性はあると思う。
ちなみに安芸市立歴史民俗資料館が、一豊の顔に刺さったという鏃を所蔵しているそうです。
千代の出自は美濃か?近江か?
『寛政重修諸家譜』では、一豊の妻を若宮喜助友興の娘と記す一方で、遠藤盛数の三女を山内一豊の妻と記す矛盾を犯しているという。若宮喜助は浅井氏家臣で近江の武士、遠藤盛数は斎藤氏家臣で美濃郡上八幡城主。両者が同一人物という可能性は無さそう。
なお、郡上側の『東家・遠藤家記録』や『秘聞郡上古日記』では遠藤盛数の娘が山内一豊の妻と記されているなど、現在は美濃説が有力なようです。
「千代」の名は史料に見えるのか?
輿入れ前は「まつ」と名乗っていたという説もあるそうなんですが、これは討死した若宮喜助の領地をその娘と思われる女性に安堵する旨の浅井長政書状に見える名で、若宮喜助の娘であるという説に基づくもので、そうでなければ全く無関係という。
じゃあ、「千代」というのはどういう史料に基づいてるのかな?と思ったわけですが、それは挙げてくれない。挙げるまでもないほど確実な史料がたくさんあるということなんだろうか?
黒髪を売って家計を助けるという美談
明智光秀の妻にもみえる逸話で、そういう行為が広く行われていたのではないかという指摘もありますが、美談としてのパターンのひとつとも言えるかもしれない。
へそくりで駿馬を購入したという美談
よく知られた逸話ですが、その典拠は新井白石の『藩翰譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』、湯浅常山の『常山紀談』などの江戸時代の史料ということなので、その事実性は疑わしい。
濃姫は二度結婚した?!
斎藤道三と前美濃守護・土岐頼純が和睦した際に頼純に輿入れしたのが濃姫である、ということが近年の研究で判明したとあるんですが・・・マジですか? 知らなんだ。参考文献を挙げてくれると良かったんですがねぇ。
秀吉はバツイチだった?!
これまた知らなかったことなんですが、北政所(禰々)との結婚前にお菊という女性と結婚するも、上手くいかず離婚したということが、伝記類に記されているとのこと。伝記類ってなんだ。
一豊と千代の間に生まれた子は1人
天正八年(1180)生まれの与禰姫のみで、その娘も5年後の地震で倒壊した建物のために亡くなってしまったそうです。
子宝に恵まれなかったものの、それでも山内一豊は側室を置かなかったとのことで、夫婦愛が云々とか律儀者だのという評価がなされるわけですが、性欲が薄かったという面もあるんじゃないかと思ったり。