源頼朝「大天狗」書状小考/龍福義友/日本歴史(691号)
今年のはじめより、頼朝の書状に見える「大天狗」とは一体誰を指すのかという問題が私の中で長らく懸案でありました。
とっかかりのないまま時間が過ぎてしまいましたが、先日出たばかりのこの論文のお陰で光が見えてきました。
まず本論文の結論からいうと、「大天狗」は後白河院を指すという従来の通説に落ち着きました。
近年有力になったという気になる高階泰経説が、どのような論理であるのかについてはあまり触れていないので、本論文からでは推測するしかないのですが、脚注にて以下の参考文献を挙げられているので読んでみたいと思います。というかそちらを先に読めれば良かったんですけどね。それと後者は入手困難なのが痛い。
さて、「大天狗」=後白河院という結論がどのように導き出されたのかまとめてみましょう。
「大天狗」の語が見える頼朝書状は、『玉葉』と『吾妻鏡』に引用されています。どちらもほぼ同一の文面を載せており、両者の記載に矛盾がないと従来考えられてきたということですが、それがそもそもの間違いであると指摘されています。両者から帰結される史実の間には矛盾があり、なおかつ信憑性が高い『玉葉』よりも後世の編纂物である『吾妻鏡』が疑われることなく優先的に利用されてきたことが問題であると。
吾妻鏡の内容と玉葉の内容の違い
「大天狗」書状の前後の諸事情に関して、両者の食い違いを指摘されていますので、それらを挙げてみます。
まずは高階泰経に関することで、『吾妻鏡』には以下のような記載があります。
- 高階泰経の使者が頼朝宛の書状を届けている。
- 一条能保宛の書状にて高階泰経個人のための取りなしを懇請している。
しかし『玉葉』によれば以下のような状況が指摘され、『吾妻鏡』の信憑性が揺らぐ。
- 高階泰経の使者派遣を窺わせる記載はなく、代わりに後白河院が「頼朝近臣」の玄雲を密使として派遣していること。
- 当該時期に高階泰経の失脚を危惧する空気は無かったことが窺われること。
またそれだけではなく、『玉葉』にみえる以下のことから頼朝書状が高階泰経宛の私信ではなく後白河院宛の公文書として取り扱われていることを指摘しています。
まとめ
これらのことから、頼朝の書状は後白河院の弁明に対する返書であり、「大天狗」の語は後白河院に対する非難であり責任追及であると結論付けています。
それでいて頼朝はその後すぐに融和的な書状を送り、結果として後白河院の責任は問いませんでした。その点については後白河院の負い目を利用して守護地頭の設置や朝廷改革などの頼朝の要求を飲ませるための方策であろうと推測しています。ただし、その後の高階泰経への厳しい処分についてはその理由が見いだせないようで、今後の課題でしょうか。
それから、この件に関する『吾妻鏡』の記載が『玉葉』を参照していることについても言及されていて、それについての詳しいことは著者ご自身のブログに記載されているそうなので、あとで読んでみたいと思います。