日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

元暦西海合戦試論/宮田敬三/立命館文学(554号)

だいぶ遅くなってしまいましたが、読みました。
予めおおよその内容を知ってはいましたが、それでもやはり期待に違わぬ刺激的な論文でございます。


義経の四国出陣は兄頼朝の意向を受けたものに非ず!


論旨を簡単にまとめると(簡単すぎ?)こんな感じかな。
そして最も重要な論拠として組み立てられているのが、義経出陣前後の『吾妻鏡』に載る頼朝・範頼の書状の遣り取りで、その内容の検討から頼朝には義経を出陣させる意図はなく、範頼単独での長期戦を構想していたことを導き出しています。
ただ、一連の書状に関してはその真偽が問題として呈されています*1ので、今後はそちらの検討が重要になりますね。
それを考察するのは私には荷が重過ぎるので、ひとまず置いておくとしてその他の事情等について考えてみるとします。


義経の出陣が頼朝の意図するところでなかった、では誰が意図したのだろうか?となると真っ先に挙がるのは後白河院でしょう。本論文では平家の反撃を恐れていた後白河院とその周辺が意図したものと推定して論を進めております。しかしこの問題に関してはどうだろう。院近臣高階泰経が院の使者として、出陣した義経を引き留めるべく摂津にまで追いかけて行ったことをどう捉えればいいのかについての言及はない。ただこの件に関しては、朝廷内でも積極派・慎重派に分かれていたとか、後白河院朝令暮改あるいは優柔不断とか、義経後白河院の許しを得ぬまま出陣したのだ、などなど色々な見方が可能ではあると思う。


いっぽう、史料として掲げている『吉記』文治元年(1185)1月8日条を見れば、まず義経の奏上があって、それを受けて記主の吉田経房が積極論を具申、という流れになっている。そうなると、最終的に命令を下したのが朝廷(後白河院)であるとしても、まず始めに出陣を企図したのは義経ということになるのではないだろうか。もし頼朝が関与していないとするならばすなわち、義経自らが出陣を企図した上で朝廷(後白河院)を動かして(或いは許しを得ず強引に)出陣したということになろう。義経がいくら「自専」の人でもここまでするものだろうか。またそうだとすると、一体彼をそこまで駆り立てるものは何だったのだろうか。考えなければならないことは多い。
それから、義経と入れ替わりに中原久経・近藤国平が畿内を沙汰するために上洛したことをどのように捉えるのかも課題だろう。