日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第45回「夢の行き先」

後白河院が権力を巧みに守り続けた?

折角、先週*1は「大天狗」が皮肉であることを表現していたのにもかかわらず、今週の番組冒頭ではそんなことはすっかり忘れていつもの路線に逆戻りとはガッカリ。
だいたい今回の後白河院って、見た目は「妖怪」のようでも、「稀代の策謀家」的なイメージは全くありませんよね。むしろ「頼りない小心者」なのにあれこれ余計なことをして下手を打っている感じかと。

天下草創の時

吾妻鏡』文治元年(1185)12月6日条に見える語。
ドラマでは武家が中心となることを強調しておりましたが、引用記事は、大江広元三善康信らと協議して作成した朝廷改革案である。つまりは朝廷の要職に親頼朝の公卿を据えようという多数派工作で、それによって間接的に朝廷をコントロールしようとするもの。それ自体は平清盛木曽義仲が採った手法と何ら変わりは無い。
守護・地頭設置の問題*2も含めて、全国支配*3へ乗り出したのではなく、鎌倉政権の発展の一段階と捉えるべきかと。

解官の事

12月6日に作成された上記の朝廷改革案には、源行家義経に同意したとして参議平親宗ら12人の解官が盛り込まれ、在京の北条時政を通じて要求されました。
そして12月17日にまず、大蔵卿高階泰経・右馬頭高階経仲父子に、義経異父弟の侍従一条能成、義経の右筆といわれる少内記中原信康らの極めて義経と近しい間柄の人々が解官され*4、続いて月末には*5、参議平親宗を始めとし、頼朝追討に関わった左大史小槻隆職・右大弁藤原光雅、義経が目指した豊後の知行国主であった刑部卿藤原頼経、そして左衛門尉平知康らが解官されている。さらに高階泰経は伊豆に、藤原頼経は安房への配流も決定。
それでも、平清盛木曽義仲による何十人にも及ぶという大量解官に比べれば優しい措置なのかもしれませんね。
ところで、ドラマでは取りあえず何人か解官してあとはのらりくらり交わそうなどと宣っておりましたが、実際にはその月のうちに要求どおりの措置を採っているのであります。
ちなみに、没落する人がいれば取り立てられる人がいるというわけで、このとき九条兼実が内覧となり、さらに彼を始めとする親頼朝派の公家を新たに議奏公卿として政務に参加させています。

豊後が頼朝の知行国

義経にやったんなら俺によこせ!」と公式に要求するのはさすがに無理がある。『吾妻鏡』の上記朝廷改革案によれば豊後は義経に与する者が多いので、その者たちを沙汰するために知行国に加えて下さい、と。確か数年後には返上したはず。

伊予は九条兼実知行国

この時なりました。頼朝が譲り渡したということになるのかな。ただ、他の議奏公卿にも知行国が与えられているのだが、それらは一切頼朝の知行国とは関係なかったところ。それまで伊予が頼朝の知行国でなかった可能性も捨てきれないか。



今回も意外とネタが豊富。ということで続きはまた後日。

*1:義経 第44回「静よさらば」その2 - 日本史日誌

*2:義経 第44回「静よさらば」その2 - 日本史日誌

*3:そもそも奥州藤原氏はまだ健在である。

*4:『吉記』文治元年(1185)12月18日条、『吾妻鏡』同年12月29日条。

*5:吾妻鏡』では翌年1月7日条に12月27日とあり、『吉記』では12月29日とある。