日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

蘇我入鹿の邸宅跡か 甘樫丘、書紀の記述裏付け

大化改新(645年)で滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の東南ふもとで、7世紀の建物跡や塀跡、焼けた土などが見つかり、奈良文化財研究所が13日発表した。谷を大規模に造成しており、日本書紀に「谷の宮門(はざまのみかど)」と記された入鹿邸の可能性が高いとみられる。
蘇我邸の有力候補地と考えられている同丘陵東側で、7世紀の建物跡が見つかったのは初。
日本書紀の記述を裏付ける画期的発見で、天皇家をしのぐ勢いを誇ったとされる蘇我氏や、日本が中央集権国家へ進む転機となった大化改新の実態を考える上で第一級の資料になる。
国営飛鳥歴史公園の整備に伴い725平方メートルを発掘、掘っ立て柱建物跡5棟と長さ12メートル以上の塀跡が見つかった。
いずれの建物跡も規模が小さく、庇(ひさし)を支えた柱の跡がないことから、正殿など中心的な建物ではなく、付属施設だったらしい。
共同通信

奈良県明日香村川原の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、7世紀の掘っ立て柱建物跡5棟が出土したと、奈良文化財研究所が13日、発表した。
研究者らは、大化の改新(645年)で暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の可能性が高いとみている。建物が甘樫丘に入り込んだ谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかったことが、「日本書紀」の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化の改新の実像に迫る一級の資料として注目されそうだ。
現場は甘樫丘の東麓で、入鹿暗殺の舞台となった飛鳥京跡の北西約600メートルの地点。蘇我氏が建立した日本最古の寺、飛鳥寺からは南西に約600メートルの位置にあたる。背後の尾根を登れば、入鹿が殺害された飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)をはじめとする歴代天皇(大王)の宮殿が造られた飛鳥京跡が眼下に広がる。
同研究所が約730平方メートルを発掘したところ、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。うち1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径20〜30センチの柱穴が並んでいた。柱筋に沿った溝(深さ20〜30センチ、幅80センチ)には、7世紀前半の土器や、焼けた壁土や炭が埋まっていた。
これらの建物は倉庫などとみられ、母屋にあたる主要な建物は、さらに東側にあると予想される。現場のすぐ南の斜面でも1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土していた。
日本書紀」には、644年11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみえみし)と、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれている。
研究者の中には「主要な建物が見つかるまで断定できない」との慎重意見もあるが、同研究所は、周辺に母屋や「上の宮門」などがあると推定しており、来年度以降も調査を続ける。
(読売新聞)

山本忠尚・天理大教授(考古学)は「正殿は今回の現場のもう少し上にあるのではないか」と、邸宅が甘樫丘のさらに広い範囲に及んでいたと想定する。
猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は蘇我邸跡には蘇我氏が編さんにかかわった国記や天皇記の一部が残っている可能性もあると指摘し、「日本書紀蘇我氏を事実以上に悪く描いている。邸宅跡の調査は飛鳥を舞台とする古代史に別の角度から光を当てるはずだ」と期待を込める。
毎日新聞

また、出土した一棟の両側には溝があり、焼けた土や炭などが詰まっていた。日本書紀では入鹿暗殺の翌日、飛鳥寺(現・奈良県明日香村飛鳥)に陣取った中大兄皇子らの軍勢に取り囲まれた蝦夷が、邸宅にあった記録を焼いたと記述。自邸に火を放って自害し、入鹿邸も同時に焼失したと推測されている。
平成六年には現場近くで、七世紀中ごろの土器や焼けた建築部材が大量に出土しており、今回見つかった焼け跡とあわせ、蝦夷自害の際の火災の可能性が高いという。
ただ、蘇我邸焼失後の七世紀後半の土器も多数見つかっており、同研究所は「必ずしも入鹿邸とは断定できないが、七世紀前半に大規模な整地を行っており、一帯が蘇我氏邸の有力な候補地であることを示す重要な資料」としている。


飛鳥の調査を数十年間手がけた猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)の話 「歴史的大事件だった大化の改新の舞台と、蘇我入鹿という第一級の人物にかかわる建物跡が見つかったことはとても大きな成果だ。今回の建物跡は小規模なため入鹿邸の中枢とは言えないが、邸宅の一部であることは間違いない」
産経新聞

甘樫丘の蘇我邸のイメージは、城砦のように丘上に聳え立っている感じなのですが、今回見付かった遺構は麓なんですね。ただ、想定される建物の規模が小さいということで、やはり丘上に中心的建物が立ち並んでいる可能性は高いかも。
なんにせよ今後の発掘成果次第ですので、注意して見守りたいと思います。