義経 第44回「静よさらば」その2
義経追討の院宣と解官
没落から僅か一週間後の文治元年(1185)11月11日に源行家・義経追討の院宣が畿内近国に出されています*1。また大物浦の遭難の翌日11月7日には伊予守・検非違使を解官*2。
早すぎです。九条兼実も「世間の転変・朝務の軽忽」と嘆いています*3。
とはいえ、平家や木曽義仲の事例を見れば想定は出来たことですから、いくらなんでも義経があのように慌てふためくのはどうですかね。美化も大概にして欲しいですが、小馬鹿にするのはもっと止めて欲しい。
また、北条時政が上洛した11月25日には頼朝に対して義経追討の院宣が下されています*4。
大天狗
高階泰経の使者が鎌倉に参じて書状を献じ、頼朝がその返報を送ったという出来事*5を、脚色でひとまとめに。使者は平知康が務め、やりとりは頼朝との対話に盛り込んでいます。駆け足進行ゆえの苦肉の策かもしれませんが、演出としてはまずまずかも。
で、件の「大天狗」発言も当然盛り込まれているわけですが、この「大天狗」が高階泰経を指しているという説については未だにどうにも理解しきれていません。後白河院に頼朝追討院宣を出させたのが高階泰経で、大天狗はその出させた人物つまり高階泰経を指す、ということなのだろうか。しかし、高階泰経が後白河院の意向を左右したのであればともかく、後白河院の意向を奉じただけなのではないのだろうか。そうであれば背後にいた後白河院を暗に批判したと捉えるのが妥当に思えるのですがねぇ。
それはさておき、これまで単語そのもののみが一人歩きしている観があった「大天狗」。これによって後白河院の評価も過大になっていたような気がしますが、あくまで頼朝による皮肉・批判であるという点が描かれていたのは評価できましょう。
守護・地頭の設置
結局これも平知康との対面に盛り込まれてしまいましたが、上洛した北条時政が11月28日に申請したものです*7。
教科書にも載る有名な出来事ですが、その実態はどうやら過大評価されてきたようです。この時点で守護・地頭が全国に置かれたわけではなく、政権発展の第一段階といったところでしょうか。