日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第43回「堀川夜討」

土佐坊昌俊祭ですよぉ〜♪

渋谷金王丸土佐坊昌俊

番組冒頭でも紹介していたように、土佐坊昌俊の前身は渋谷金王丸であるという伝承があります。
渋谷金王丸は『平治物語』に出てくる人物で、源義朝の小姓として東下りに付き従い、主君が討たれると敵の囲みを突破して都に戻り、常盤御前源義朝の死を伝えたとされます。その後は出家して主君の菩提を弔ったということで賞賛されていますが、現代的感覚でいえばそんなことより庇護者を失った常盤母子に仕えて護ってやれよという感じですかね。
さて、そんな渋谷金王丸土佐坊昌俊が結びつけられることとなったのは、なんでも『平家物語』八坂本あたりがネタ元らしいのですが、詳しいことまでは知らないので要学習。土佐坊昌俊伝説の研究論文なんかは結構ありそうだし・・・たぶん。
ただ、この伝説はかなり広まったようで各地に「渋谷金王丸土佐坊昌俊」の史跡があり、下はその一部です。


渋谷金王丸御影堂(金王八幡宮) …東京都渋谷区
舞田石造金王五輪塔 …長野県上田市

土佐坊昌俊源範頼の陣に?

これも番組冒頭で紹介していたのですが、これについては初耳。やっぱり『平家物語』にあるのかな?

だから伊予国は頼朝の知行国だってえの

後白河院知行国で頼朝が好き勝手していたとしたら、他のどの国を与えられようと同じことになってしまうよ。手鞠さんがご指摘されておりますが、まったく仰るとおりです。
伊予守任官を後白河院の専断とし、それを受けての刺客派遣、こういう筋書きにするための改変なんでしょうが、改変した先でボロが出ているようではお話になりません。(´д`;)

そういえば梶原景時はどうした?

先週、「10月*1述べたとおりですが、その梶原景季は10月6日に鎌倉に帰還しています。で、『吾妻鏡』では彼の報告を受けた翌日に刺客派遣の運びとなるわけですが、大河ドラマはその過程が一切省かれているので、(梶原景季の代わりの)梶原景時の存在意義が無くなってしまってた。

渋谷氏と金王丸の関係

伝説をふまえてか、大河ドラマでもいちおう土佐坊昌俊が渋谷氏の関係者という設定になっていたようです。
「渋谷重国の一族のもの」*2とか「主の渋谷様がよくお許しになった」*3とか「渋谷様の代参」*4とか「渋谷重国様の家来ではないか」*5とか「鎌倉殿の御家人渋谷重国の家来」*6とか。しつこいまでに渋谷氏との関係を強調しています(笑)。
土佐坊昌俊渋谷金王丸であるというのはあくまで伝説の世界の話ですが、さてその金王丸と渋谷氏の関係はどうなのでしょう?
渋谷金王丸と通称されているわけですが、『平治物語』にはただ「金王丸」とあるだけで渋谷氏との関係性は示されていない。また、渋谷氏の系図などでは金王丸を渋谷重国の弟としたり子供としたりと、まちまちな扱いらしい。
これらから察するに、渋谷氏と金王丸の関係性も疑わしいのではないだろうか。

頼朝による刺客派遣への疑義

通説理解を否定した菱沼氏の論文を以前にも紹介しています。


源義経の挙兵と土佐房襲撃事件/菱沼一憲/日本歴史(684号) - 日本史日誌


一般的には、「頼朝の刺客襲撃→義経挙兵」という図式で語られるのですが、そもそも刺客派遣を載せる『吾妻鏡』においてすら、10月17日の襲撃以前の10月11日・13日に源行家に同意して頼朝追討の院宣を賜るべく奏上したとの記事を載せています。
ただ、これだけでは刺客派遣を否定することに繋がりませんし、義経の挙兵も刺客派遣の情報を得たことによるものと説明されてきました。しかし、もし刺客派遣の確たる情報を得ていたとすれば、警戒を厳重にしているのが普通だと思われますが、それにも関わらず襲撃を受けたときに義経の家人は多くが出払っていたというのは解せない。
刺客側としても、既に義経が鎌倉に叛旗を翻しているところにやって来たのでは不意は打てまい。不意が打てるのは義経が味方と考えていた勢力だろう。そういう側面からも、襲撃者は在京勢力で、襲撃は義経挙兵への反発によるものとする菱沼氏の見解に賛同できます。
ということで、この襲撃事件は義経の挙兵計画が早くも破綻したことを示していると考えられますし、またその後の畿内近国の武士への軍勢催促が失敗したことにも影響を及ぼした可能性も考えられるんじゃないでしょうか。

じゃあ、土佐坊昌俊ってなんなのさ?

吾妻鏡』によれば彼の母や子が下野国に在るとされますが、これは彼の功労により恩賞として与えられた下野国中泉庄に拠ったものと考えられましょう。刺客起用が偽りだとしても、義経に与同せず討たれたとあれば遺族に恩賞が与えられてしかるべきであろうゆえ、それまでが偽りということは無いかと。
それから弟として三上家季が見えますが、三上氏は近江住人と考えられ、また『平家物語』読み本系諸本によれば土佐坊昌俊について大和国住人で興福寺西金堂衆であったとのことで、在京勢力としてはピッタリかと。

*1:文治元年(1185)))になっても都に留まって」いることになっていましたが、まだ京都に居ることになってるんでしょうか? 『吾妻鏡』では、梶原景時ではなく息子の梶原景季が上洛したことは先週((義経 第42回「鎌倉の陰謀」 - 日本史日誌

*2:by北条時政

*3:by武蔵坊弁慶

*4:by土佐坊昌俊

*5:by佐藤忠信

*6:by源行家