日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第42回「鎌倉の陰謀」

義経の所領は全て没収されたのか?

没収記事を載せる『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月13日条によれば、義経に与えられていた平家没官領*1が悉く没収されたとありますが、それが義経の所領全てであったのかどうかまでは分かりません。
また、義経謀反の理由を載せる『玉葉』文治元年(1185)10月17日条においても、頼朝より賜った平家没官領が悉く取り返されてしまった、とあるもそれ以上のことは言及がなくてハッキリしない。
あくまで「平家没官領」と限定的に記されていることを考えると、それ以外の所領を保持していたのではないかと考えられます。
一方で、「九郎御曹司」と呼ばれていたことから、義経の鎌倉居住時代は所領を有せず頼朝の扶養家族として暮らしていた可能性があり、その延長で平家没官領以外の所領が与えられていなかった可能性も・・・。ただこれだけでは何とも言い難いですね。

義経の奏上で平宗盛処刑を知る後白河院

先週*2述べたように、処刑の最終決定は後白河院が行っているので知らないわけがない。すっとぼけるな!と言ったところでしょうか(笑)

安達盛長、帰っちゃったよ

安達新三郎に成り代わって義経監視役になるかと思いきや。またしばらく出番なさそうだな。

甘ちゃん義経

前回頼朝との決別宣言した義経ですが、にもかかわらず頼朝と戦わずに済むと・・・いや、いくらなんでも甘過ぎるぞい。主人公を小馬鹿にするのもあんまりだ。
義経が京に戻ってから挙兵まで4ヶ月も間があるのに、帰還時に決別させるからこのようなアホな展開になるのだ。

京都大地震

元暦二年(1185)7月9日*3
あちこちで大きな被害が出たようですが、『吾妻鏡』によれば不思議なことに義経の館では何の被害も出なかったとあります。真偽は分かりませんが、後の挙兵を暗示させるような記事ですね。

うつぼ

まさか出てくるとは・・・(°◇°)~ポカーン
もしかして今後の伏線?やっぱり平泉行き?

伊予守

文治元年(1185)8月16日*4の小除目にて。ちなみに前々日の8月14日に元暦から文治に改元されています。
吾妻鏡』によれば、4月に申請していたもので、義経を始めとした源氏一門6人*5がそれぞれ受領に任じられています。決して後白河院の独断で与えた無断任官ではありません。
この時期、既に義経の不義が露見していたとする『吾妻鏡』はこの矛盾を今更停止させることも出来なかった、としています。また、受領に任官されると検非違使を辞すのが慣例なので、頼朝は検非違使から外すことを目論んで伊予守に任官させたとする見解もあります。どうなんでしょうね。まー、結局は検非違使左衛門尉を兼帯したまま受領任官という未曾有のことになったわけですが。
それから、伊予は後白河院知行国ではなく、伊予も含めた六ヶ国が頼朝の知行国となったのでした。彼らはいずれも「名国司*6」であり、伊予が義経の経済基盤になろうはずもないのでした。

梶原景季に代わりまして梶原景時

義経の動向を探るために上洛したのは景季なのに・・・*7
これでもう景季は完全に出番無さそうだなー。彼を義経べったりに描いてきたのは一体何だったのでしょう。意味ありげで全く無意味な設定が多すぎる。

源行家

必死だな!(笑)
彼には前月の元暦二年(1185)8月4日に鎌倉より追討命令が出ていたのでした。そりゃ必死にもなりますわな。言っていたことは正論ですけど。

土佐坊昌俊

キタ━━━(゜∀゜)━━━!!

*1:戦後処理として、平家一門と平家に味方した人々から没収した所領。

*2:日本史日誌 - 義経 第41回「兄弟絶縁」

*3:玉葉』『吉記』同日条。『吾妻鏡』7月19日条。

*4:玉葉』同日条。『吾妻鏡』8月29日条。

*5:山名義範(伊豆守)、大内惟義(相模守)、足利義兼(上総介)、加賀見遠光(信濃守)、安田義資(越後守)。

*6:名声を得た国司(名君)という意味ではなく、名目上の国司

*7:吾妻鏡』文治元年(1185)9月2日条。