日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第41回「兄弟絶縁」

追放しておいて謀反が心配?!

は? 寝言は大概にしてくれ・・・。


何度も言うように、これは腰越状的理解の不自然さが原因。頼朝は義経を見放したわけではなく、義経の望むような勲功を認めなかったのみで、むしろそれを不満に思った義経が次第に離反へと傾いていったと捉えるのが妥当なところだと思う。

義経の所領没収

義経が帰洛するにあたって「頼朝に恨みのあるやつはオレに従え!」と捨て台詞を吐いたことから、平家没官領二十四箇所が没収されている*1
ただ、こんなことを言われて所領を没収するだけなんて頼朝にしては甘すぎる。所領没収の裏付けは取れているそうなので、その理由が脚色されているのだろう。

平重衡斬首

南都に送られる途中、木津の辺にて斬られ、首は奈良坂に晒されたという*2平宗盛斬首より後のことですが、ドラマでは逆になっておりました。

ひさしぶりの安達盛長

なんか唐突に登場。頼朝より命じられ、義経平宗盛父子斬首を伝えるための使者として出てきましたが、これは虚構でしょう。ただ、長門本平家物語』に叛意を抱く恐れのある義経の監視役として安達新三郎清経*3が付けられたという話があるそうなので、これをモチーフにしたのかもしれない。そうなると静御前が産んだ赤子を殺害する役も安達新三郎ではなく、安達盛長が代行する可能性が高そうだ。

平宗盛・清宗父子斬首

元暦二年6月21日、近江国篠原にて平宗盛が、同国野路口で平清宗が斬首され、翌々日に首は検非違使平知康に渡され六条河原で獄門に掛けられている*4
さて、頼朝の命令でということにされていましたが、『玉葉』元暦二年6月22日条によれば、頼朝は院宣に従うとのことで、義経はその旨を申し上げ、「生きながらの入洛無骨」とのことで梟首すべしという院宣が下されたそうですよ。
それにしても、逍遙と死に臨む宗盛タン・・・よかった。いままで散々な扱いをされてきましたが、最期はビシッと決めてくれてホントによかった。(つД`)

頼朝と決別する義経

元暦二年6月段階で決意するには早過ぎ。
いやそれよりも、頼朝に不信感を抱かれて試されたので付き従う気力も失せた、と言っていましたが、これまでにも試されている、不信感を抱かれている、と言っていた場面が幾度となくありましたよね・・・既に分かっていたことなのに何でいまさら。もう少し考えて演出してくれ!

*1:吾妻鏡』元暦二年6月13日条。

*2:玉葉』元暦二年6月23日条。

*3:頼朝直属の雑色。静御前が産んだ赤子を頼朝の命で殺害している。安達盛長との関係は不詳。足立遠元の養子という話はある。

*4:吾妻鏡