日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

太平記 第28回「開戦前夜」

ここのところまたご無沙汰してしまったので溜まる一方です。年内に見終われるかな?(^^;


前半は、陸奥に下った北畠親子に対抗すべく、足利尊氏真田広之)が参内し、後醍醐天皇片岡孝夫)の勅許を得て、足利直義高嶋政伸)が関東の支配を任されて鎌倉に下向。
で、後半は護良親王堤大二郎)が足利尊氏を討つべく兵を集めて一触即発、といところで次回へ続くのでした。


足利直義成良親王を奉じて鎌倉に下向したのは、北畠父子の奥州下向から二ヶ月後の元弘三年(1333)12月。義良親王と同じく成良親王阿野廉子原田美枝子)所生の皇子であることから、この時点において足利尊氏阿野廉子が共同歩調をとっていたと考えられてもいるのですが、ドラマではあくまで純朴な尊氏は阿野廉子との取引を拒否。成良親王の派遣については別段何の説明もないままでした。
ただ、後醍醐天皇足利尊氏のやりとりはドラマとして非常に見ごたえがある。この辺の出来が『義経』とは違うところですなー。


年が変わって改元があり、建武元年(1334)の出来事が紹介される。
まず大内裏造営の計画と、それに伴う臨時税の賦課。これは1月のことで、正確には改元前なんですが。それと改元前といえば、阿野廉子所生の長子・恒良親王立太子が行われています。阿野廉子そして護良親王の立場に大きな影響を与えたと思われる出来事ですが、完全スルー。いいんですかね?
それから新貨幣鋳造のこと、有名な二条河原落書のことが取り上げられ、ここで藤夜叉(宮沢りえ)親子とましらの石(柳葉敏郎)が登場するのはいつもながらの手法ですが悪くない。


尊氏を討つべく兵を集めていた護良親王ですが、少数の兵による暗殺計画だと思っていたのですが、結構多くの兵が集まった可能性もある模様。
『梅松論』は、後醍醐天皇の意を受けて新田義貞楠木正成名和長年が加担していたという説を載せ、護良逮捕時には味方していた南部・工藤ら数十人が召し捕られたとされ、また『保暦間記』には多くの武士が誅されたとあるそうです。
とはいえ、ドラマのように万を越えるような大軍というのは幾ら何でも誇張でしょう。