日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

戦国北条一族/黒田基樹/新人物往来社

戦国 北条一族

戦国 北条一族

伊勢下向と今川家内紛調停は架空?

北条早雲は、応仁年間(1467〜1469)に伊勢に逃亡した足利義視に従ったといわれ、そして文明八年(1476)には義兄今川義忠没後の家督を巡る内紛に関東より介入するべく乗り込んできた太田道灌とやりあって調停を果たした、と言われていたんですが、それらが京都での活動時期に被っているとのことで、史実と考えることに疑問を呈している。
特に太田道灌との対面は二大巨頭の夢の顔合わせと言われてきただけに衝撃的な話。ただ、京都での活動として紹介されているのは文明十三年以降の話ですし、それ以前では文明三年に本領の備中国荏原郷に所在したとあるのみ。根拠としては弱いような・・・。文明八年の内紛と長享元年(1487)の小鹿範光討滅と甥・今川氏親家督継承、この二回の内紛が混交して作成されたという可能性については、さもありなんとは思いますけどね。

伊豆乱入

一般的には北条早雲が己の才覚のみで下克上を起こしてのし上がった、とされる伊豆討ち入りですが、もちろんここは有力な明応の政変との関連で語られます。ただ、詳しい経緯や事情*1までは記されていないので、その辺りは参考文献に挙げられている論文や学術書を読まねばならないんでしょう。

小田原城奪取

こちらも伝承では、北条早雲の才覚と策略で乗っ取った、とされてきましたが、城主大森氏の扇谷上杉方からの離反によるものと説明。当時の関東は山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立による長享の乱の真っ最中。伊豆乱入のときより北条早雲は扇谷上杉氏方として活動しており、敵方へ寝返った大森氏を攻略したと解釈。至極妥当かと。どんな梟雄といえども、いきなり社会の枠組みを乗り越えることは出来ないでしょう。

北条氏康の息子について

いままで北条氏康の七男・八男とされてきた氏忠・氏光ですが、実は氏康の弟氏堯の子で、その死後に養子とされた可能性があるとのこと。ふーむ、しかしその根拠が記されていないのですが。
それから六男で上杉謙信の養子となった上杉景虎のこと。彼については養子入りの前は北条氏秀と名乗っていたという俗説があったはずなんですが、これについては一切記述無し。『真説戦国北条五代―早雲と一族、百年の興亡 (歴史群像シリーズ 14)』(歴史群像シリーズ)では一項設けられていたのですが・・・この十数年で上杉景虎北条氏秀は別人*2というのは、もう既に定着しているということなんでしょうか。それともまた何か別の事情が?



早雲以降の章は全般的に恬淡とした感じで出来事を書き連ねている割合が高いですね。ただ、本書は北条五代の通史で一般書という性格もあるので、さらに詳しいことを知ろうとするならば、やはり参考文献に挙げられた論文・学術書を当たらなきゃなりませんな。
あと、年表を巻末にでも付してくれれば有り難かったんですが。これがないと、自分の頭の中で時系列を組み立てなくてはならない。これが面倒なもんで、だいたい途中からは時系列は考えずに流し読みするようになってしまうんですよね・・・はぁ。

*1:例えば細川政元北条早雲今川氏親の親密な関係とはどこから窺えるのか、とかそういうこと。

*2:北条氏秀北条綱成の次男。