日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

太平記 第27回「公家か武家か」

公家と武家とを二極分化して対立するものと捉える見解はちょっと古いかな。


さて時は元弘三年(1333)秋、奥州で北条残党の反乱が起き、その鎮圧のため陸奥守北畠顕家後藤久美子)とその父北畠親房*1近藤正臣)が下向することになった。討伐軍には武家が、というか足利家が任せられてしかるべきと考える足利直義高嶋政伸)は、公家の北畠父子が任じられたことに不満の様子だが、新政を助けることに情熱を燃やす兄足利尊氏真田広之)は取り合わない。
ただこの奥州の反乱というのがどうも引っ掛かる。具体的に何を指しているのだろうか。思い当たるのは、津軽で挙兵した名越時如*2と安達高景*3の反乱だが、これはこの年の12月。北畠顕家が翌年11月に約1年がかりでようやく鎮定したのだが、北畠父子の下向は10月であり、この反乱の鎮定のため下向したことでないのは明らか。そうなると、これとは別の反乱があったのか、或いはドラマの都合に合わせたものか。


尊氏は都の再建計画を相談するべく諸将を招集。架空ならではの錚々たる顔ぶれが揃いました。新田義貞根津甚八)・脇屋義助石原良純)兄弟に佐々木道誉陣内孝則)、岩松経家(赤塚真人)、楠木正成武田鉄矢)、名和長年小松方正)、二階堂道蘊(北九州男)、大仏高直(河西健司)。あと4人列席しておりますが、役名は無い模様。
架空とはいえ、人が集まれば座次(席順)というものがあります。座次はそれぞれの政治的な力関係・格式が端的に表される。ここでは、足利尊氏が上座に着き高師直がお側に控えている。そして左方には順に新田・佐々木・脇屋・岩松そしてあと2人が並び、右方は順に楠木・名和そして2人挟んで二階堂・大仏。どうだろう、妥当なところか。ただ、新田が足利の下座についているのは物わかりのよい甚八義貞ならではでしょう。
結局会合はそれぞれの思惑がぶつかりあって物別れに終わりますが、その中で大仏高直の強烈な発言が印象に残る。

いかにも我らは北条の残党。その残党を使わねば、御辺等には法も作れず政事も進まぬ。

ふてぶてしく、まさに「言ってやった!言ってやった!」って感じでワロタ。いいぞ高直、グッジョブ!
第23回*4で降伏していた彼ら。そのまま建武政権に取り込まれていたのですが、結局は翌春の本間・渋谷ら北条残党による鎌倉攻撃の余波を受けて処刑される悲劇の運命が待ち受けています(涙)。


さて、次に足利直義邸に向かった足利尊氏ですが、ここで不知哉丸*5と鉢合わせ。ここで母清子(藤村志保)と直義に隠し子のことを知られてしまう。藤夜叉(宮沢りえ)とましらの石(柳葉敏郎)もやって来て、いよいよグダグダな感じに。
でも、大きな政治上の問題を尊氏の個人的な事情を使って庶民の問題とリンクさせるという演出手法は面白い。

*1:彼は当時、既に出家していた。

*2:北条氏傍流。

*3:安達時顕の子。鎌倉幕府評定衆引付頭人

*4:太平記 第23回「凱旋」 - 日本史日誌

*5:後の足利直冬