義経 第29回「母の遺言」
源範頼・源広綱・平賀義信の国司任官
『吾妻鏡』によれば、元暦元年(1184)5月21日に頼朝が推挙の書状を送り、6月5日に除目が行われ、6月20日に結果が届き、翌日3人を召して伝えた、となっています。
さて、ドラマではこの除目が一ノ谷の戦いの恩賞という位置づけであることを強調しておりましたが、そうではないでしょう。源範頼を除く2人は一ノ谷の戦いには加わっていないと思われ、源氏一門としての任官と見られる。また、このとき頼朝推挙によって同時に任官に預かった平頼盛父子*1及び一条能保*2についても一ノ谷の戦いとの関係は認められない。全て頼朝の縁故人事とみるのが最も妥当かと。
そもそも、義経が一ノ谷の戦いにおける「第一」の殊勲者だったのかどうか・・・。
義経の自由任官と平家追討使に関する問題
従来どおりの解釈による展開で、新しい視点が入る余地はなかったですね。
ひとまず自由任官については、いままで幾度か言及しております。
- 後白河上皇/安田元久/人物叢書 - 日本史日誌
- 源義経の合戦と戦略/菱沼一憲/角川選書 - 日本史日誌
- 大江広元/上杉和彦/人物叢書 - 日本史日誌
- 義経とその時代/大三輪龍彦、関幸彦、福田豊彦/山川出版社 - 日本史日誌
- 義経とその時代/大三輪龍彦、関幸彦、福田豊彦/山川出版社 - 日本史日誌
話をまとめますと、義経が平家追討使とならなかったのは、自由任官による頼朝の勘気のためではなかったであろう、ということ。
- 義経はその後も従五位下に叙されたり、昇殿を許されたりしていること。→本当に勘気を蒙ったの?
- その後も多くの御家人が自由任官してること。→そもそもこの時期は自由任官に対する締め付けがそんなに厳しくなかったのでは?
- ドラマではスルーされましたが、この時期には平信兼追討のため伊勢に出陣していること。→はじめから追討使の構想外だったのでは?
それから、相変わらず後白河院に関しては陰謀史観で描かれていますが、平家も健在なこの時期にそんな陰謀を働かせる必要性はない。京都の治安警察を担う者に相応の官職を与えただけのことであろうし、むしろ無位無官では不都合なこともあろう。
河越重頼の息女
9月14日に京に向けて出立しています。