日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第28回「頼朝非情なり」

一週間遅れなので、なるべく簡潔に言及しましょうか。

平重衡の鎌倉連行に伴う諸将の動き

吾妻鏡』『玉葉』によれば、寿永三年(1184)3月10日に京都を出立。頼朝の申請によるもので、梶原景時が引率。3月27日に伊豆に到着し、翌日面謁しています。
もとより義経の関与するところではありません。一方の源範頼はといえば、やはり鎌倉へ戻ったようなのですが、これが一体いつなのか。『吾妻鏡』では3月6日に頼朝の御勘気*1が免ぜられたとあるだけで、その前後どうしていたのかがハッキリしない。

大江広元三善康信(善信入道)登場

両人とも言わずとしれた下向官人。大江広元の下向時期は、はっきりとした史料がないため寿永二年(1183)末から翌年初めあたりと推定されています。一方の三善康信は、『吾妻鏡』によれば寿永三年(1184)4月14日に参着とあります。時系列でいうと、平重衡の鎌倉下向と清水義高誅殺の間のこと。
ちなみに、大江広元は当時中原姓。

清水義高の逃亡

吾妻鏡』に基づいて流れを順番に追うと

  • 4月20日 夜半に脱走
  • 4月21日 発覚
  • 4月26日 入間河原で誅した堀親家郎従が帰還報告
  • 5月1日 多くの御家人に甲斐・信濃への出陣の命令が下る
  • 6月27日 堀親家の郎従梟首


まず第一の疑問は何故逃げ出したのかということ。『吾妻鏡』の言うように頼朝側に誅殺の意志があり、それを察知してのことというのが一番妥当か。或いは実際に甲斐・信濃で叛逆の動きがあり、その勢力が義高を連れ出して擁立しようと画策していたのか。ドラマのような大姫(と侍女)の独断というのは可能性は低かろう・・・ただ、己の判断ミスで悲惨な結果を招いたこちらの展開の方が、大姫のトラウマを抱えたその後の人生を考えると納得がいくような気もする。
第二の疑問は、頼朝は義高をどのように処遇していくつもりだったのかということ。誅殺の意志があって、それを受けての逃亡であれば話は簡単ですが、そうでなかった場合はどうなのだろう。まー、取りあえず逃げてしまっては助命の道などありようもないのですが。捕らえて、そこで悩むという展開はおかしなもんです。

*1:御家人との先陣争いを起こしたため、2月1日に蒙っていた。