日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

現場から記者リポート:長浜城の金箔瓦で混乱 否めない市教委のミスリード /滋賀

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050716-00000219-mailo-l25

豊臣秀吉山内一豊が城主を務めた長浜市長浜城遺跡で、金箔(ぱく)瓦をみつけたという長浜市教委の発表が先月、行われた。市教委は発表で、天正11(1583)年春、賤ケ岳合戦で柴田勝家軍を破った秀吉が、天下統一をアピールするため、長浜城に金箔瓦を用いたと位置づけた。これが本当なら、秀吉が最初に金箔瓦を用いたとされる大坂城より前の時期にあたり、歴史を変えるニュースだが、取材を進めるうち、発表に大きな疑問が残るようになった。当時の取材メモなどから検証した。【野々口義信】


金箔瓦は四半世紀前の1980年、市立長浜城歴史博物館建設に伴う遺跡調査で出土した三巴紋軒丸瓦と鯱(しゃち)瓦。発掘当時は分からなかったが、最近になって市教委が奈良大文学部の西山要一教授に鑑定を依頼。赤外分光分析の結果、瓦表面に漆を塗っていたことが判明した。漆は金箔を張る接着剤に使用するもので、金は検出されなかったが、長浜城での金箔瓦の使用が初めて明らかになった。
問題は、金箔瓦が使われた時期。市教委は、内藤家が城主時代の17世紀初頭、徳川幕府の命で修復した際の、掘っ立て柱の建物の柱穴から他の焼けた瓦と一緒に出土した、と発表した。
長浜城は、山内一豊が城主時代の天正13(1585)年11月に発生した「天正地震」で倒壊、火災が発生したと伝えられる。市教委は内藤家による修復の際、柱穴に地震で焼けた瓦と一緒に金箔瓦も入れたとして、天正の大地震以前、織田信長の安土築城以降と結論づけた。秀吉は賤ケ岳合戦後、長浜城を直轄城として取り戻したが、信長を継いで天下統一をアピールするため金箔瓦を葺(ふ)いたというのだ。市教委は、大坂城築城以前に秀吉が金箔瓦を使ったことを示す歴史的に重要な発見で、鯱瓦全体に金箔を張った最古の例だとして、わざわざ全身を金色に塗った金のしゃちほこの模型を披露した。
「合戦に勝利して瓦を葺くなどの事例はなく、あり得ない。金箔イコール秀吉は、短絡的で早計」。織豊期城郭研究会(中井均代表)が発表に異議を唱え、「秀吉が金箔を用いるのは、大坂城以降。鯱瓦についても全面金箔の出土は皆無」と発表の内容を否定した。市教委の“身内”である市立長浜城歴史博物館からも、「秀吉は、賤ケ岳合戦後、京都・山崎にいて大坂城築城にかかり、長浜城にはいなかった。どちらかといえば長浜城は整理する傾向にあったと思う」と疑問の声が上がった。
同研究会は、出土した軒丸瓦の文様から、天正末期、または、それ以降の文禄、慶長の可能性を指摘する。中井代表は「秀吉の瓦使用を結論づけるには資料不足。城郭遺跡では、大量の金箔瓦が出土するのが普通で、今回のように1枚のみというのはあり得ない。長浜城でも今後出土する可能性があり、今後の調査と、情報の整理に期待したい」と話す。
今回の発表は、専門家の間でも意見が分かれ、メディアの扱いにも大きなばらつきが出た。市教委が年代特定にあいまいさを残したまま「秀吉イコール金」の物語性を優先させたのが、混乱の原因になったと思う。
発表では、修復建物柱穴の表面と同じ地層から17世紀初めごろの陶器片などが出土したことを時代特定の根拠にした。しかし、軒丸瓦や鯱瓦の出土は、今から25年も前。疑問を感じ、当時の調査担当者に尋ねると、「長浜城の遺構はたびたび修復改修され、時代特定は困難。瓦の使用年代は特定できなかったし、していない」という答えが返ってきた。
考古学では、上位、下位層の遺物の調査から地層の時代特定に導くのが常識なのに、層位特定はできなかった。瓦の使用年代の根拠がなければ、秀吉との関連も根拠を失う。鯱瓦を全面金色に塗装したのも、「バランスから考えて全面金箔だった」というあいまいな根拠に基づいていた。市教委によるミスリードの感は否めない。
市教委歴史文化課の森口訓男課長補佐は「今の時点では、金箔瓦と秀吉を結びつけることに無理があったかもしれない。もう少し慎重にやるべきだった」と配慮が足りなかったことを認める。綿密なデータの積み重ねの上での考察が必要だということを、今回の取材が教えてくれた。

1週間遅れになっちゃいましたが、注目していたニュースなのでちょいと長めに引用。


結局のところ、やっぱり先走りだったというワケですね。まー、今回はこのように指摘がありましたから良かったものの、何もなければそのまま定説となっていた可能性も。
世の中には、なんの検討もされずに定説・通説となっているものがたくさんあるような気がする。