日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

一ノ谷の戦いについて

ちょいとばかり腰を据えて考察してみようかと。
参考書は勿論『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』。まー、一読したおりに理解しきれなかったので、その補習というわけなんですが。(^^;


まず史料の問題。
通説における合戦経過は『平家物語』諸本に拠るところが大きいですが、その内容は義経の搦手軍の動向が大半を占め、源範頼の大手軍の記述は少ない*1
さらに義経の活躍を演出するために実在しない合戦空間が創造されているという。鵯越と一ノ谷が離れているのに、さもすぐ近くかのような錯覚を受けるのもこのためか。そのせいで、逆落としの場所がどこかで説が分かれている。
義経が攻めたのも一ノ谷、平家の本拠も一ノ谷、逆落としも一ノ谷。このように何でもかんでも一ノ谷に凝縮させたがための齟齬なんでしょう*2。そしてそれは、合戦場が生田から一ノ谷という広い範囲に及ぶにもかかわらず、この戦いが「一ノ谷の戦い」と総称とされていることに端的に表れているように思う。それだけ『平家物語』の影響力が大きいということでもありますが、『平家物語』が軍記物という性格もあってかなり脚色されていることも明らか。


じゃあ、ってことで『吾妻鏡』に頼りたくなるんですけど、これも合戦場を「一ノ谷」と総称し、かつ義経に偏った内容ということで、『平家物語』と大差がない模様。しかも一ノ谷の戦いにおける記事は『平家物語』に依拠したものであるという説もあるということで、当てには出来そうにない。


そこで出てくるのが『玉葉』。寿永三年(1184)2月8日条に、権中納言藤原定能からの伝聞記事が載っているのですが、藤原定能は院近臣であり、後白河院への奏上と同内容の可能性が高いという評価。ただ残念なことに記述が少なく、詳しいことまでは分からない。ということで、『玉葉』を骨格にして、『平家物語』『吾妻鏡』で肉付けするという方針が適当とのこと。
なるほど、納得の展開です。


まずは『玉葉』の記事の内容を確認しましょうか。簡単にまとめるとこんな感じかと。

  • 源義経は、丹波の城を陥落させ、次いで一ノ谷を陥落させたという。
  • 源範頼は、浜地から福原に攻め寄せたという。
  • 多田行綱は、山方より攻め寄せ、真っ先に山の手を陥落させたという。


えーっと、何かここで唐突な感じで出てきた多田行綱。言わずと知れた鹿ヶ谷の陰謀の密告者で、摂津源氏の武士ですが、一ノ谷の戦いにおける他の史料に出てくるのでしょうか? 私はその辺よく知らないのでどうにも唐突な感が否めません。
それはともかく、この多田行綱がどこから攻め寄せ、どこを陥落させたか、というのがどうも重要ポイントらしいです。それで山の手というのは、『平家物語』によれば平通盛・平教経・平盛俊らが布陣しており、義経が逆落としで奇襲したのも彼らの陣という。さらに『平家物語』「覚一本」には山の手が鵯越の麓という記述があるということで、多田行綱は鵯越の攻撃部隊であったということになる。とはいえ、他に史料がないようで、多田行綱が大手に属していたのか、搦手に属していたのか、はたまた別働隊だったのか、さらにいえばどこからどのうようなルートで攻めいったのか全くの謎。
義経と行動を供にし、途中で分かれて通説で義経がたどったとされるルートを進み、一方の義経は安田義定・土肥実平らが率いたとされてきた搦手主力軍ルートをそのまま進んだと考えるのが一番妥当なのかな・・・うーん。


ひとまずこんなところですけど、通説的理解とかなりの隔たりがありますし、不明点も多いので、まだまだ考証してもらわないといけないことが多いようです。(^^;
仮にもし多田行綱が鵯越で逆落とししていたとしても、それが何故義経に置き換えられたのか。単に義経の英雄と描くための脚色、というような説明だけでは強固に根付いた常識的史観を覆すのは困難であるように思う。より一層の研究の進展に期待したい。

*1:これについては、元々の情報量の問題を指摘されている。短期間なりとも頼朝代官として在京していた義経と、京とは縁のない源範頼。さもありなん、といったところ。

*2:「物語」としては、そうした方がより濃密になるのだと思います。