義経とその時代/大三輪龍彦、関幸彦、福田豊彦/山川出版社
- 作者: 大三輪龍彦,福田豊彦,関幸彦
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2005/06
- メディア: 単行本
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- 2部、義経論の現在
読了しました。
久保田氏の論考は、現存する義経の発給文書について。
屋島へ向けて出陣した直後に発給した文書が、「相手に対しもっとも尊大な立場を示し」ているという袖判書下様式で、同じ様式の文書を将軍と対等の立場であったという足利直義も発給しているのだそうな。
文書について詳しいことは分かりかねますが、頼朝代官を越えた立場を望んでいた或いはそう振る舞っていた可能性、を文書の面から指摘されているのが興味深いところ。
宮崎氏の論考は、自由任官と云われる左衛門尉・検非違使任官と、その後の伊予守任官がテーマ。
最も関心のある自由任官か否かという点についての検討はないが、朝廷の視点からの解釈が興味を惹きます。
義経の出自からも、京都の治安にあたらせるという現実的要請からも、そして範頼の官よりは下位であるという任官のバランスからいっても、これ以上ふさわしい官はないといえよう。勲功の賞は頼朝がはからい申し上げるとの申し入れはなされているものの、朝廷側からみれば義経の任官は当然の成り行きであり、範頼・義経間の秩序を壊すものでもなかった。叙位・任官は朝廷の専権事項であり、頼朝からの推挙は無視しえないものの、推挙がなければ任官させないというものではない。頼朝が東国武士の勝手な任官を許さないなどというのは朝廷のあずかり知るところではないのである。
巷間の俗説では、頼朝・義経の間を引き裂こうとする後白河院の陰謀というように捉える向きもあったりしますが、むしろ人事自体はバランスを重視して頼朝へも配慮したものと言えそう。それから後白河院や廷臣たちにとって、京都の治安回復は平家の追討より優先*1されてしかるべき懸案事項であったでしょうし、合戦で名を挙げた勇者義経にしかるべき官位をつけてこれに当たらせたいと思うのも当然の成り行きのように思います。それでも大河ドラマでは陰謀史観で進められるンでしょうナー。
ついで伊予守任官の件についても考察。こちらも義経・頼朝双方に配慮したバランス人事で、いかにも公家らしい対処の仕方という評価は、私が後白河院に対して抱いている場当たり的なイメージとも重なるところがあるように思う。
『腰越状』に関する伊藤氏の論考ですが、期待した真偽についての検討ではなく、文章内容の検討が中心。ただ、その検討からかなりの信憑性をもつ文書と評価。政所別当で頼朝の政治顧問であった大江広元のもとには起請文や申状が集まり、それが『吾妻鏡』の史料として提供されたのではないかと推測。
とはいえ、これだけではよくわからない。『腰越状』の真偽に関してよくわかるまとまった論考はどこかにないかしら?
下山氏は義経の妻妾について伝説・伝承まで含めてまとめています。よくまとまっていてこれだけでも役に立ちそう。
で、妻妾といえば「義経の聟」源有綱の妻の話題も出てきます。さすがに『義経の登場―王権論の視座から (NHKブックス)』のいう義経の妹説*2は出てきませんでしたが、こちらでは養女の可能性を指摘しています。やっぱりその可能性ありますよねー。でもどの説もあくまで可能性に過ぎず、真相は藪の中って感じです。
最後に、本書を読んで頼朝・義経の対立に至る経過について、現時点における自分なりの考えをまとめてみようと思います。
まず、左衛門尉・検非違使任官問題。これが自由任官か否かについての検討は本書にありませんでしたが、仮に自由任官としてもさほど頼朝の怒りが見えてこない。その後も京都で頼朝代官として活動していること。直後に河越重頼の娘との結婚を世話していること。平家追討使が源範頼に交代*3も、義経に対して京都の治安維持の面で頼りとしている後白河院との妥協の結果ではなかろうか。つまり対立の発端はここになく、他にあると考えられる。
で、それが屋島の戦い以降にみえる義経の「自専」の動きであるように思う。そもそもこの出陣は頼朝の命令ではなく義経の独断によるものという見解*4もあるそうです。
ひとまずはこんなところかな。細かいところは今後、大河ドラマを見つつ検討するという方向で。