日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経とその時代/大三輪龍彦、関幸彦、福田豊彦/山川出版社

義経とその時代

義経とその時代

  • 1部、源義経とその時代─シンポジウムの記録
  • 2部、義経論の現在
    • 1章、地域と権力
      • 在京中の義経 …菊池紳一
      • 秀衡の遺言 …岡田清一
      • 阿津賀志山防塁を考える …吉井宏
    • (つづく)


1部は、2005年1月に開催されたシンポジウム「源義経とその時代」の報告記録。このシンポジウム、故安田元久夫妻の十年祭に伴うものだそうで、2部はその安田氏から学恩を頂いた方々の書き下ろした義経論となっています。


福田氏の報告は、『平家物語』の諸本の異同を一ノ谷の戦いに関する箇所の比較で検討しています。
それほど多くない場面数にも関わらず、諸本の違いはかなり目立つ。『平家物語』の各エピソードを史料として使うには、諸本を比較検討したうえで、さらに史実としての有効性を検討しなければならないようだ。そりゃ厄介だよなー。


上横手氏の報告は、朝幕関係の考察。
義経が平家追討使から外されたのは、自由任官に頼朝が立腹したためではなく、義経が京都を離れることに後白河院らが反対したためとしている。左衛門尉・検非違使という官職の職務が京都での軍事警察活動であること、また平知康などのような院近臣が就任することなどからそのように推定している。屋島へと出陣する義経を摂津まで使者を派遣して引き留めたりしていることから、この考えには素直に頷けます。
ただ、平家滅亡後に鎌倉への凱旋を許されず京都へ返されたことについては、従来どおりの謀略史観陰謀史観に基づいた見解に終始。そういえば、氏の著書『源義経―源平内乱と英雄の実像 (平凡社ライブラリー)』でも同様の見解でした。読んだ当時*1はそのように理解するほかないと思っていましたが、『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』にて明確に疑義が呈されたからには、やはり素直に頷くことは出来ない。


岡田氏・吉井氏の論考は奥州藤原氏に関するもの。
岡田氏は、当時の奥州の在地豪族を摘出して北奥と南奥に分類。北奥は「郎従」が多く、南奥は婚姻や乳母関係にある者が多いという特徴、また南奥は頼朝に与したり奥州藤原氏滅亡後も存続しえた存在が多いという特徴も指摘している。奥州藤原氏が基盤としたのは、もともと安倍氏の地盤・奥六郡と清原氏の地盤・山北三郡であり、どちらも北奥に位置する。それを考えれば納得のいきますね。
一方、吉井氏は阿津賀志山防塁を藤原泰衡の奥州専守防衛路線の象徴と捉え、軍事的側面よりも境界を示すものという見解を呈示。そうであるならば、南奥の特に現在の福島県地域はもとより奥州藤原氏の勢力圏外ということになり興味深い。