日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第26回「修羅の道へ」

今回は、木曽義仲追討ののち一ノ谷の戦いへと出陣するまでの極めて短期間のお話であります。

木曽義仲梟首

吾妻鏡』によれば、合戦から6日後の寿永三年(1184)1月26日、七条河原にて今井兼平らとともに晒されています。
ドラマでは、相変わらず義経がワケの分からぬ理屈を述べておりましたが、いつものことですので気にしません。一方で、源範頼は今のところ理知的な常識人として描かれていますね。単なる凡人扱いではないのは嬉しいところ。

義経鞍馬寺参詣

平家物語』に基づくみたいですね。でも正直そんな余裕あったのか疑問。

都を窺う平家の本拠

一ノ谷に本拠があるような設定でしたが、果たしてどうなんでしょうか。確かに合戦は、「一ノ谷の戦い」として市民権を得ているように思いますが、生田口(三ノ宮付近)から一ノ谷口(須磨付近)と合戦場の範囲は広く、一ノ谷は平家陣地の西端に過ぎない。
やはり本拠は生田と一ノ谷の間の福原が妥当なのではないだろうか。一ノ谷の戦いの際にもう一度よく吟味する必要がありそうだ。

一ノ谷の北西

平知盛が「北西の山側は急峻な崖なので安心♪」、と述べただけで布陣については全く触れませんでしたが、摂津三草山に平資盛らが布陣していたことは『吾妻鏡』『平家物語』にも見えること。ひとまず「義経紀行」では触れていましたが、ドラマだと平資盛平宗盛の本陣を任されることになったようですな。

静御前再登場、磯禅師初登場

うむ。一ノ谷の戦いが終わってからでも良かったんでない? 義経は腰を落ち着ける暇もなかったと思うのですが、ドラマでは随分とのんびりしてますナー。

鎌倉に木曽義仲追討の報

吾妻鏡』だと、合戦の一週間後である1月27日に、安田義定・源範頼源義経・一条忠頼・梶原景時から使者が到着したとのこと。さらに翌日には小山朝政・土肥実平・渋谷重国らの使者も参着している。情報経路は一本化されていなかったんですね。相互監視のためだろうか。

大姫かわいいよ大姫

野口真緒ちゃん、かわいいですなー。出番が少ないのが残念。

一ノ谷の戦いにおける平維盛

平通盛の騎下に配属されていましたが、そういえばどこに居たんでしょ?

いよいよ出陣。

吾妻鏡』によれば1月29日。『玉葉』の同日条にも伝聞記事がある。平家追討の宣旨は1月26日に出たようだ。いずれにせよ、木曽義仲追討の報を受けて頼朝が指令を発したとしてもこれらには間に合いようがない。現代とは違ってタイムラグがありすぎる。よって、平家追討に関する鎌倉方の一連の動きは、入京以前からの規定路線であったということでしょう。
ところで、何故か平知康が何喰わぬ顔で登場しておりました(笑)。まー、院近臣の役割は今後も彼ひとりに担わせるってことなんでしょうね。

三種の神器のための和睦案

朝廷では平家追討の強硬派だけでなく、三種の神器の安全を優先すべきという和平派も存在しており、『玉葉』によれば静賢法印を使者とする具体案が進んでいたようだが、結局は追討使の派遣となり、それでは使者の役目が果たせない、と静賢法印は辞退したという。
しかしこれで和平の動きが完全に消滅したわけでもないようなんですが、その辺は次回に組み込まれている模様。

健気なうつぼ

やっぱりうつぼの恋は報われないのね。でもそれでいいんじゃないかな、うつぼらしくて。