日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第24回「動乱の都」

一週間遅れの視聴。祭りに乗り遅れた気分だ。あんまり気持ちが盛り上がらない。
既に各所で詳しく言及されているので、内容はひとまず把握済み。


特に大筋のことは上記の方々のところで触れられていますので(多謝!)、あとはそれをなぞりながらボーっと見るだけ。
とりあえず、今回は(いつもどおり?)重箱の隅をつつくようなことだけ言及していくとしますか。


木曽義仲が西国で平家方と戦っているところで名前が出た妹尾(瀬尾)。GWの岡山散策の際に彼のお墓を訪れている*1ので、ちょっとしたことだけど名前が出ただけでほんのりと嬉しい。まー、木曽軍が勝ったのが妹尾相手だけだったために取り上げられただけなんでしょうけど。


妹尾太郎墓


法住寺殿合戦の後、木曽義仲が前関白松殿基房の娘を強引に娶ったという話は『平家物語』で有名なエピソード。
しかしながらこの話、『平家物語』の創作という疑いも。治承三年のクーデターで失脚した松殿基房が巻き返しをはかるため木曽義仲に接近していたとみられる政治情勢を鑑みれば何ともおかしな話である。それだけでなく、『歴史読本 2005年 06月号』の「木曽義仲をめぐる女人群像」で作家水沢龍樹氏が、

義仲が基房の婿になったという話は、当時の史書に載っていないし、現代の芸能リポーターにも匹敵する口さがない貴族や僧たちの日記にも記されてはいないのだ。
義仲が「松殿の姫君」と結ばれたか否か、それを確定する史料は見つかっていない。それどころか、「松殿の姫君」が実在した証拠さえ得られないのである。

と記していて、これが確かならば創作の可能性は高いように思います。
さらに言えば、彼女が義仲没後源通親の室となって曹洞宗の開祖道元を生むという話も疑わしいものがある。前著によれば、史料的裏付けは特になく、時代の下った元亨二年(1322)成立の『元亨釈書』に村上源氏の子孫とあるだけで、両親について具体的な記述ないという。そうなると、聖人にありがちな御落胤伝説の類と見るのが妥当なところでしょうか。
ただ、『夜盗虫の朝寝坊』さんご紹介のサイトによれば、「伊子」という名前や「従三位」という位階など具体的な情報があるので何とも引っ掛かる。これらは何に基づくものなのだろうか? 話はその典拠次第ってことになりそう。