日本史日誌

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秀吉の長浜城、出土のシャチホコ瓦は金箔使用

豊臣秀吉が築いた滋賀県長浜市長浜城遺跡から出土した16世紀後半の瓦に金箔(きんぱく)が施されていたと22日、同市教委が発表した。
シャチホコに使う鯱瓦(しゃちがわら)(長さ約23センチ、幅約16センチ、高さ約15センチ)など2点。金箔を張る際に接着剤として使う漆が塗られていたことが赤外線調査で確認された。
市教委は作られた時期を秀吉が賤ヶ岳の合戦(1583年)で柴田勝家を破った時期と推定。織田信長の一族が独占していた金箔瓦を使うことで「天下統一をアピールする意図があったのでは」としている。

長浜城は1574(天正2)年の築城で、秀吉が城主だった時代を経て、1584(天正12)年には山内一豊が城主となった。
同市教委は「当時、金箔瓦の使用は、織田親子に限られていた。また、山内一豊らが使ったとも考えにくい。賤ケ岳の合戦で柴田勝家を破り、天下統一に突き進む秀吉が威勢を誇示するために、金箔瓦を用いた可能性が高い」としている。
造瓦考古学に詳しい畑美樹徳・六勝寺研究会事務局長は「天下人を目指す秀吉が大坂城で金箔瓦を使う前に、試作品として長浜城の一部に用いたと考えられる」と話している。
一方、中井均・織豊期城郭研究会代表は「合戦に勝って瓦をふいた例はない。秀吉が用いたとするのは早計で、瓦そのものから年代を特定すべきだ」としている。

山内一豊が長浜に入封するのって賤ヶ岳の戦いの翌年だったのか・・・それまではどうなっていたんだっけかな。あれ、前城主柴田勝豊が亡くなったのっていつだっけ? ここら辺の細かい事情にはとんと疎い。


それはともかく、山内一豊が使った可能性もあるんじゃないかしらん? 金箔瓦って甲府城(加藤光泰・浅野長政)や沼田城(真田昌幸)など豊臣大名の城郭でも出土しているわけですし。


それと織田信長父子に使用が限られていた織田政権時代も、秀吉は信長の四男秀勝を養子にしていたことで許されていた・・・なんて可能性は無いんかな?