日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第23回「九郎と義仲」

うつぼキチャッタ━━━━(゜∀゜)━━━━ !!!!!

またかよ!と思いつつも、顔がニヤけてしまう自分がいる。

後白河院、密かに比叡山へ遷御

寿永二年(1183)7月24日の夜半に法住寺殿御所を脱出。平家が都落ちするのは翌25日のことですから、平家の人々の驚愕・落胆ぶりは察するに余りあります。

ひさびさ登場の安徳天皇建礼門院ゴマキ

影うすいよ。

義経、お忍び上洛

大河ドラマといえばやっぱりこれ。お忍び上洛は欠かせないよなー(笑)。
しかも創作でないといかん。あの『太平記』の足利高氏*1も、『炎立つ』の藤原経清*2藤原泰衡*3も通った道。しかしまあ、今までは「田舎の若者が都に憧れて上京」というパターンでしたが、義経は都生まれのせいかあまり感慨はない模様。

平家都落ち

寿永二年(1183)7月25日。六波羅と西八條の屋敷に火をかけて行ったとのことですが、スルーされてました。

木曽義仲入京

寿永二年(1183)7月28日。馬上で義仲と顔を見合わせてニンマリする巴御前こと小池栄子の表情にエロスを感じる。
源行家も同じく入京。ナレーションでは「尾張にいた」とされていましたが、伊賀越えで大和から宇治へ進出して京を窺ったとみられるので、あまりいい説明とは言えない。だいたい尾張にいたら、義経に追い越されてるやんけ。
両人は、前日に還御していた後白河院に拝謁。平家追討の話が無かったことにされていますが、『玉葉』や『吉記』によれば平家追討の命は出ていた模様。この後も後白河院は首尾一貫して平家追討の推進派であり続け、それは義仲滅亡後も変わらなかったと記憶しているのだが。一方で木曽義仲は平家より頼朝の動向が気になってしまい、その辺も後白河院との対立に関係するところかと。

平家一門、福原に立ち寄る

平清盛の墓参りして、結局またここも燃やしてしまう。こちらの炎上シーンは有り。海上より見た燃える福原はCGかな?
で、ここに来るまでに、平頼盛の離脱、平資盛平貞能後白河院を頼って一旦は京に戻るなどの一門分裂のエピソードがあるわけですが、一切カット。平頼盛の話は次回あるようですが。

公家と武家

平知盛が「我らは武門ではなく公家になっていたのじゃ」と宣っておりました。所謂「平家は貴族化したから滅んだ」史観の典型で、最近では廃れてつつある解釈かと。
貴族化云々よりも、治承三年のクーデター以降の強引な政策への反発が、各地で反乱が起きた主要因だろうし、戦闘に敗れたのは徴発した兵が主体で、士気に問題があったためではなかろうか。

北陸宮と後鳥羽天皇践祚、そして木曽義仲源行家叙任

なんかこのあたりの話が恣意的に並べ替えられて、こんがらがっているような。


嗚呼、木曽義仲は皇嗣について不満ゆえに後白河院を強請ったなどということはなかったのだ。冤罪だ。むしろ不満を述べながら、あっさり決まっているし、その後駄々をこねた様子もない。
皇嗣選定については籤が用いられ、丹後局の夢占も動員されている。急なことであったし、何より三種の神器がないという非常事態。それゆえ、践祚の先例としてハッキリとせぬ遙か昔の継体天皇を持ち出さねばならぬ始末。
ところで、後鳥羽天皇がキャストロールにありませんでしたけど、どういうことでしょう?

藤原基房再登場

治承三年のクーデターで解官され、出家のうえ、備前に配流されていた前関白松殿基房後白河院に拝謁していました。戻ってくるの早すぎない? というかこの人、配流後の足取りはハッキリしなかったような記憶が。特に息女が木曽義仲が妾となったという話は有名ではあるけれど、確実な史料で確認が出来ないそうですし。ただ、子息師家は木曽義仲期の摂政を務め、義仲滅亡とともに解官されている。

後白河院の人物像

今日はやたらと「権謀術数を弄する大天狗」像にしたい演出が目立ちました。多少の味付けは必要でしょうが、過剰なのはちょっとね。
平清盛が頭に乗りすぎたのも、もともとは後白河院が頼りにし過ぎたせいでもあるし、かわいさ余って憎さ百倍か?、と虚しく思えた。


中途ですが、続きはまた後日。