日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第21回「いざ出陣」

いっぺん書いたのに消えてしもた・・・げんなり。なんで勝手にログアウトになってるんだ。

平塚良郷とは誰か

オリジナル架空人物と思われる。
モデルとしてすぐに思い浮かぶのは上総介広常。この年、寿永二年(1183)12月に頼朝の命を受けた梶原景時によって謀殺されている。ただし、「寿永二年十月宣旨*1」によって朝廷と妥協の道を選んだ頼朝に対して、上総介広常はあくまで東国独立路線を主張したための誅殺といわれ、テーマとしてはもっと大きなスケールの問題だったと言えましょう。
それでは何故このような形でドラマに取り込んだのかを考えてみました。ここで対象人物を上総介広常とするには、あまりに有力者すぎるため、これまで登場させずにおいたものを突然登場させるのは不自然だろう。また、政権の路線対立という問題を取り上げるにはそれなりの時間を割かねばならず、さらに主人公義経を上手に絡ませるのは困難であろうことは想像できる。それゆえに「情」と「理」という問題へ矮小化したものと推測しますが、どうでしょうか?
そこまでして取り込む価値があるのか、と問われれば、否と答えざるを得ませんけど。(^^;

出陣を渋る平宗盛

ごちゃごちゃと理由を述べておりましたが、単に臆病なだけに見えてしまう。それが宗盛タンの悲しき性。
平宗盛の出陣といえば、治承五年(1181)に美濃出陣が予定されていましたが、平清盛急死によって取りやめになってしまったのが思い起こされます。

倶利伽羅峠の戦い

寿永二年(1183)5月11日。合戦シーンは至極あっさり。火牛の計が有名ですが、どうなんですかね。文学的虚構だとは思いますけど。
それから、平家の惨敗が強調されますが、態勢を立て直して6月には加賀国篠原でもう一合戦しているんですよね。ここでも負けてますが。(^^;
もうひとつ、この合戦で別働隊を率いた源行家はここでも負けて、義仲軍に助けられたという話は何とも彼らしいエピソードで好きです(笑)。

木曽義仲、すぐには入京せず

近江まで進出した木曽義仲ですが、イノシシのように強引に都に突入したりはせず、後白河院延暦寺への根回しをしていたりします。都で平家が頑張っていたというのもあるんでしょうけど。平家都落ちが7月25日、木曽義仲入京が7月28日です。

賊軍となることへの懸念

木曽義仲が京都に迫ったという報に鎌倉首脳が今後の対象を評議。ここで梶原景時が、「木曽義仲が官軍となり、それと戦をすることによって賊軍となる恐れ」を述べていましたが、平家政権が健在であるこのとき鎌倉は朝敵・反乱軍であり、いまさら朝敵となることを恐れるというのは論理的に如何なものかと思われます。

義経出陣

後白河院への貢ぎ物を送る使者というのを建て前とし、木曽義仲入京前後に出陣したように描かれておりました。実際には、既に木曽義仲が入京し、後白河院と頼朝の交渉の結果として「寿永二年十月宣旨」が下された後の閏10月上旬*2に出陣。主な役目としては、宣旨の施行があったらしい。
ただ、「木曽義仲への牽制」という役目と「下知あるまで入京するな」という命令に関しては頷ける。義経は伊勢・近江で留まっていたようであるし、出陣した義経の背後に頼朝の影を感じたて焦ったのか木曽義仲は対立する後白河院と法住寺合戦に及び、一時の勝利を得るも平家との和議もまとまらず、味方の軍は減ってゆき、転落の一途を辿ることになる。
そして法住寺合戦を受けて頼朝は源範頼に大軍を預けて出陣させ、義経が合流して瀬田・宇治川の戦いへと至るわけです。義経は十二分に役目を果たしたと言えるでしょう。

*1:後白河院が頼朝の奏請を容れて、東海道東山道の支配権を承認し、代わりに荘園・公領の年貢を保障させるべく発した院宣

*2:玉葉』によれば閏10月8日。