日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

大江広元/上杉和彦/人物叢書

大江広元 (人物叢書)

大江広元 (人物叢書)

  • id:sanraku2:20050526:b1
  • 第五、建久年間の広元
  • 第六、将軍頼家の時代
  • 第七、将軍実朝と北条氏のはざまで
  • 第八、連署の執権
  • 第九、実朝暗殺と承久の乱─晩年の広元
  • 第十、鎌倉御家人広元の周辺


大江広元源通親が親密な関係にあったということに、意外な印象を持った。
どちらも幕府・朝廷を代表する策謀家というイメージのせいだろうか。あるいは、上流貴族の生まれである源通親に対し、大江広元はもともと下級貴族の出身、という身分差ゆえか。
しかし、どちらかといえば源通親は権力欲旺盛でのし上がった印象が強いので、案外のし上がった者同士で馬が合ったのかもしれない。あっ、でも、実務官僚な大江広元は権力欲より仕事のやりがいを求めるタイプのような気がするし・・・うーん、どのような関係だったのだろうか。
って、ちょっとイメージ論で語りすぎました。あくまで一般的イメージからの妄想。(^^;


意外と言えば、明法博士・左衛門大尉・検非違使に無断任官(自由任官)している点。『吾妻鏡』の言うように、源義経の左衛門少尉・検非違使任官も無断任官だとすれば、これはもう血迷ったとしか言いようがない。
本書でも、

それほどに肩書の魅力あ大きかったとみるべきか、はたまた広元なりの何らかの深慮があったのか、そのあたりは定かではない

と、このように広元の行為に疑問を投げかけている。


ただ無断任官に対する頼朝の対応は断固とした態度ではないように思える。
広元にしても、建久二年(1191)4月1日に任じられた以降も頼朝腹心としての活動は続いているし、頼朝の圧力にしても不快感を示して辞職を促すくらいしか見当たらない。そしてその辞職も、任官から半年後11月5日に明法博士を、翌年建久三年(1192)2月21日に残る二つの武官職を辞している。本書では「すべての官職を手放すまでの期間はかなり長い」と述べており、私もそのように感じる。
このようにみていくと無断任官は、確かに大江広元も辞職せざるを得なくなったものの、頼朝・義経兄弟決裂の直接原因となるような重大過失として認識されていなかったのではなかろうか。
なんだかまだ書きたいことがあるような気がするが、上手くまとめきれないので、ひとまずこの件は通説に疑問を投げかけるに留めておきます。(^^;


追記:源実朝暗殺事件後、その後継者をめぐって頼朝弟の阿野全成が挙兵したとありますが、これは阿野全成の子・阿野時元の誤り。既に阿野全成源頼家将軍時代に誅殺されている。
たぶんウッカリミスでしょう。言及するほどのことでもないだろうと思いもしましたが、念のため。(^^;