日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第20回「鎌倉の人質」

前回*1から一気に1年半ほど時が進み、寿永二年(1183)2月になっています。実際には前回から今回の間に、政子の頼家出産と亀の前に関する一連の騒動があったわけですが・・・まあ、さほどストーリーに影響はなさそう。
あとは、大飢饉によって戦線が膠着状態が陥ったことに触れてくれてもよかったような。なんで源氏平氏双方が「しばらくなりをひそめて」いたのか気になる人もおられるだろうに。
さて、今回も注目ポイントを以下列挙。

和田義盛出陣

都を発向した平家の軍勢に対応するため、鎌倉から出陣。しかし『吾妻鏡』は寿永二年の記事を欠いていて具体的なことがよく分からない。そもそもこの件は何に基づいているのだろうか。
要調査。情報求む!

再び志田義広

出演はしませんが、名前だけはくどいほど出てきました。ちょっと不思議な感じ、というか異様だ。ここらへんの演出はバランスを欠いている。何度も名前を出さねばならないのであれば、ちょい役でも登場させるべきではなかったか。登場させぬなら、もっと控えめに、いやむしろ一切無視の方がスッキリする。淋しいですけど。

野木宮合戦

寿永二年(1183)*22月23日。前回*3述べたように『吾妻鏡』の編纂ミスというアレです。
源範頼が出陣していますが、このときの彼の立場は『吾妻鏡』によればあくまで小山氏に対する加勢に過ぎなかった模様。のちの西国出陣のときのような大将軍ではなかったとすると、このときの出陣は頼朝代官ではなかったということか。そこから、彼の地盤である比企・吉見*4から彼自身の判断で出陣したのではないか、というように推測されたりもするのですが、どうなんでしょうか。

源行家の謎発言

「鎌倉殿は、木曽殿の父上、それがしの父の仇の倅ぞ!」
ん?
「鎌倉殿(源頼朝)は、木曽殿(木曽義仲)の父上(源義賢)、それがし(源行家)の父(源為義)の仇の倅ぞ!」
んんー??
源義賢を殺害したのは頼朝の兄義平であり、その父源義朝は直接手は下さなかったにしても、関与したであろうからこれはいい。問題は源為義の件。確かに源為義は、保元の乱で長男源義朝と異なり崇徳院方に属して敗れ、息子を頼って降伏したものの赦されず処刑されている。確かに仇といえば仇なんでしょーけど、『平治物語』では長兄源義朝のもとで源行家は戦っているんですよね。それだけでは否定する材料にはなりませんが、それよりも何よりも『義経』において今までそのような描写はなかった。
と、いうことは頼朝・義経に見捨てられたゆえの変身と捉えるべきなんでしょうね。ちょっと考えすぎたかな?(^^;

木曽義仲元服のときのエピソード

上洛し、石清水八幡宮にて元服を行い、「いずれは都を我が物に」と宣ったという話。この話の原典は何であったろう? 『平家物語』だったかもしれない。


追記:『夜盗虫の朝寝坊』さんが『平家物語』の該当部分を引用紹介して下さいました。多謝。

頼朝信濃出陣

この件も『吾妻鏡』がこの年を欠いているため具体的なことがよく分からない。
ひとまずこの出陣の結果、木曽義仲は頼朝のもとに長男義高を差し出すことになる。
それからこの出陣の発端が、志田義広・源行家兄弟を木曽義仲が匿ったため、としているのは石井進鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて (平凡社ライブラリー)』の推測に基づくものだろう。志田義広・源行家兄弟の引き渡しを頼朝が要求したのもその延長上の解釈と言えましょう。ただ、折角ここまでやるのではあれば志田義広が出てこないのはやはり違和感が残るわけでして・・・愚痴愚痴(^^;

平清宗(平宗盛長男)と平頼盛女の婚姻

平家一門の紐帯を強めようとの婚姻政策とのことですが、この件は何かしらに基づいているのかな?よく知らないので気になる。
それにしても平宗盛平知盛兄弟の愚兄賢弟ぶりは今回もハッキリしている。ガンバレ宗盛! あと、それにも増して平頼盛の情けなさっぷりも余りに(涙)。

清水義高、鎌倉へ

大姫登場! 大姫かわいいよ大姫。野口真緒ちゃんかわいいですね。『義経』においては、牛若赤ん坊と双璧をなす可愛さ。
義経が傳役ならぬ遊び相手を務めさせられていましたが、実は結構オイシイ仕事かもしれません。(笑) ま、半年後には出陣してしまうわけですけど。