日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第19回「兄へ物申す」

今回のポイントは以下のとおり。

後白河院、法住寺殿へ移御

治承五年(1181)閏2月25日のこと。のちに木曽義仲の攻撃を受ける御所です。

源範頼登場

蒲殿、出番遅すぎのような気がするけど、いつ鎌倉にやってきたんでしたっけ。はっきりとしなかったような気もする。
藤姓足利氏と結んで頼朝に叛旗を翻した志太義広が、小山氏を攻撃した野木宮合戦において、源範頼は小山氏に加勢参戦している。この野木宮合戦は、『吾妻鏡』では治承五年(1181)閏2月23日の出来事とされているのですが、これは編纂のミスで実際には寿永二年(1183)のこととされる*1
ということは、源範頼が鎌倉に来るのは遅かったのかもしれない。あるいはただ単に記載してもらえなかっただけかもしれないし、よく分からない。

常陸や上野で鎌倉殿に従わぬ者ども

常陸の志太義広の名が挙げられました。上野だと新田義重か? でも両者とも従っていたと思われますが。志太義広は前年11月の佐竹攻めの際に参陣しており、新田義重も前年12月に鎌倉に参上している。志太義広が叛旗を翻すのも前述のように翌々年のこと。
ちなみに志太義広は頼朝らの叔父で、源行家の兄・・・だけど、影は薄いですなぁ。そういえば野木宮合戦の敗戦後、木曽義仲と行動を共にしてるんですよね。弟の源行家は途中で木曽義仲を裏切ったけど、彼は滅亡まで付き合ってるんだよなぁ。三郎義広・十郎行家の兄弟関係ってどんなもんだったのだろう。彼ら兄弟は数多くいたけれど、源平合戦まで生き延びていたのは二人きりだったのだから個人的には仲良くしていて欲しい(笑)。

樋口兼光・今井兼平登場

木曽義仲の乳母子の兄弟が出てきました。樋口兼光を演じるのが堤大二郎というのは『2005-04-05 - Mariner-S Blog』さんからお聞きして知っていたのですが、今井兼平が古本新之輔ですか。そういえば彼は『武蔵 MUSASHI』にも出ていましたっけ。取りあえず、木曽義仲最期のシーンが今から少し心配になってきました。

後白河院に頼朝の密奏

玉葉』の養和元年(1181)8月1日条に伝聞として出てくるもの。だから実際にはもう少し前に届いたのでしょう。内容としては、後白河院に対して謀反の意図がないこと、そして平家とも和平の用意があることを示して、それをエサに朝敵の立場からの解放と、実力支配した東国の支配権の獲得しようというもの。

和平提案を拒否する平家

そして頼朝からの和平提案は平家に示されるも平宗盛は拒否。
後白河院に依存しながらも、父の遺言を守ろうと抗戦の道を選ぶという平宗盛の立場を顕著に示したシーンでした。遺言が時子の捏造であり、かつ和平提案も丹後局から時子に示され、イレギュラーが重なっていますが、結果オーライか。

墨俣川の戦い

治承五年(1181)3月10日。数に勝る平家方(平重衡平維盛)が源行家に圧勝。鎌倉から援軍として派遣された義円はまったくスルー。討死しちゃったし出番はもうない。「義経紀行」で触れてくれたのがせめてもの救いか。

敗戦後の行家

鎌倉に逃げ帰ってきてましたが、実際はどうだったのか。『吾妻鏡』には記載がないようです。しばらくは尾張に留まったのか。はたまた木曽義仲のもとへ向かったのか。

横田河原の戦い

治承五年(1181)6月。信濃に攻め込んできた越後の城氏を、兵力に劣る木曽義仲が撃破。9月という話も。

藤原秀衡の陸奥守任官

養和元年(1181)8月15日に城助職の越後守とともに任官される。異例の事態に公家たちは憤慨したようですがどうにもならず。
合わせて、藤原秀衡には頼朝追討、城助職には木曽義仲追討が命じられた模様。これを受けて城氏は信濃に攻め込んだのではないか。ただ、知識不足・調査不足でよく分からない。正直、木曽義仲の方まで手が回らない。(^^;
それにしても、平家はかなり藤原秀衡に期待していたようです。京都ではたびたび藤原秀衡が関東に攻め入ったという風評が立っていたようですし。悲しい片思いといったところ。

藤原秀衡を恐れる頼朝

江の島弁財天にて藤原秀衡調伏を行ったりしています*2。でもそれで佐藤兄弟や義経を警戒したというのは、まだ一部学者の唱える推測ではなかったか。現段階ではまだ何とも言い難く、研究の進展が待たれる。