日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第18回「清盛死す」

「諸君らが愛してくれた平清盛は死んだ!なぜだ?」
「ボウ・・・ズだからさ」
ゴメンナサイ。


さて、鎌倉では義経が大蔵御所の一角に住まいをもらっていました。以前に言及*1した、時代考証の奥富氏の意見が取り入れられたということなんでしょうか。
それにしてもなんなんですかね、また平泉と同じパターン。視聴者に「またかよ!」ってツッコミを入れてもらおうっていう意図でもあるんでしょうか(苦笑)。平泉のときと違うのは、特に頼朝に気に入られて、という設定ではなかった点か。しかし、どういう理由でというのは説明ありませんでしたね。創作話ですから、その理由を説明しようとするとまた別の創作話を作ることになりそう*2なので説明なくても我慢しなければなるまいか。


平盛国邸で倒れる平清盛。『吾妻鏡』では治承五年(1181)2月25日の発病とし、『玉葉』では2月27日に病のことが触れられている。いずれにしても2月末に発病したのは間違いなさそう。
そしてそれから1週間ばかり後の閏2月4日にそのままお亡くなり。死を悟った清盛は後白河院に「私の死後は宗盛とともに取り計らって下さい」と奏すも、ハッキリとした返答がもらえなかったのでそれを怨んで「全て宗盛に任せるからネ!」と激怒したそうな*3。『平家物語』などのいう「あっち死に」の話ともに、どうやら安らかな最期とはほど遠かったようです。しかし、激しい熱病の中でも気概だけは失わなかったみたい。


で、平清盛の奏上に対する後白河院の対応ですが、ドラマではまず平時忠が取り次ぐも返答をもらえず、次に平宗盛が参上するも後白河院丹後局平知康の妖怪トリオの前には為すすべもなく(笑)。
今回初登場の鼓判官平知康ですが、この年の1月7日に左衛門尉を解官されてるんですね。いつ復活したんだろう? あるいは解官されても院近臣として活動していたんかな?


平清盛の遺言を捏造する時子。その遺言は、『平家物語』などで有名な「頼朝の首をはねて我が墓前に供えろ」っていうアレです。ドラマでは、都づくりの夢が破れた寂しき老人と化してしまっていて、諸国の反乱鎮圧などに意欲を燃やす姿は全然描かれませんでしたので、平清盛にこのような遺言をさせるわけにもいかず、時子に代弁させたということなのでしょう。
公式サイトによれば、「後継者となった宗盛に平家の棟梁として一抹の頼りなさを感じていた」ので、叱咤激励するためについた嘘ということなんだそうですが、そんな描写ありましたっけか?

*1:義経 第15回「兄と弟」 - 日本史日誌

*2:史実や伝承を使って上手くまとめてくれるなら良いのですが、『義経』は創作で創作を重ねる愚を何度も行った前科が。

*3:玉葉』治承五年閏2月5日条